土佐史研究家 広谷喜十郎 |
262 「テニハ」の杉本斧次-高知市広報「あかるいまち」2006年4月号より- | |
土佐狂句「テニハ」の開祖は川村一瓢(いちびょう)である。元文(一七三六年〜四一年)のころ、山本重太夫が毎年伊勢大廟の御祈祷札を捧じて御師として土佐に来たが、一瓢がこの重太夫に入門し伊勢句を習い、ここに土佐狂句「テニハ」が始まることになったと、『高知県百科事典』はそのスタートのいきさつを述べている。これが、土佐方言を駆使しながら土佐的洒脱さを狙ったものが多い土佐独特の庶民の文学となったというのである。 『鏡村史』の中に、大崎勇氏が十一ページにわたり「鏡村の土佐狂句」の一文を寄せてその盛衰の動きを紹介しているが、大正時代には極めて盛んであったことが分かる。 鏡大利出身の杉本斧次は、このテニハ宗匠として活躍した人物である。斧次は、明治二十二年(一八八九年)に三十二歳で鏡村村長となり、その後も村会議員、代書人として村政発展のために貢献した。また、地区民の相互扶助のしくみである頼母子講などを行ったり、村で唯一の寺院・地福寺の復興に尽力したりした。 最近、知人の紹介で孫に当たる方にお会いする機会を得た。斧次は、なかなか魅力あふれる人柄であったらしい。 テニハにおいては「梅花」、「山紫」の号を持ち、手引書を作成したり、「大利連」を組織したりするなど普及に努めた。さらに、隣接した旭地区の同好者も加わるようになり、「旭鏡連」に発展する。また、県下の句会にも積極的に出向き、宗匠として指導的役割を果たしている。国文学者の岡林清水氏は、テニハの世界は「他派のごとく宗家をつぐということをせず貴賤長幼にかかわらず傑出した者に宗匠の机につかしめ」(『高知県文学史』)と指摘している。彼の実力は高く評価されていたといえる。 斧次にはこんなエピソードも残っている。ある時、彼は田仕事を終えて帰る道々、句作に夢中になってしまった。連れていた牛を小屋に入れようとしたら、牛がいない。句作に夢中になるあまり牛を途中に置き忘れてきたという。 斧次の句は、昭和四年に刊行された桐島像一著『土佐句テニハ集』(富士越書店)に数多く収録されている。 |
●杉本斧次(1857〜1924)の肖像 |