近世城下町は、日本固有の都市として成立し、近代以降高知市をはじめ都道府県庁所在地の大部分を占める。
城下町は、城郭・侍屋敷区・足軽奉公人区・町人町区・寺院区などの配置を意図した領主によって計画された都市である。
土佐では、長宗我部元親が天正時代(十六世紀後半)、新しい領国経営の中心地として鏡川三角州に城下町建設を試みる。その後慶長六(一六〇一)年、山内一豊が再び鏡川三角州を城下町建設地に選定し、京都から百々越前安行を総奉行に招き大高坂山の城郭建設と城下町の建設を進めた。
しかし、当時の計画を示す図も建設の様子を伝える文献も伝わっていないため、その後作成された城下町絵図によってうかがうことになる。
江戸時代に作成された高知城下町絵図の中に高知市民図書館が所蔵する「慶安五年高知郭中絵図」がある。これは、慶安四(一六五一)年七月幕府の命令を受け、翌年正月に差し出したものの控え図が今日まで残されたものである。
絵図には、高知城、城下町を中心に、田園地帯、丘陵部が描かれている。郭中に比べ上町が極端に狭くなっており、周辺部は縮尺を気にせずに描かれていることが分かる。
一見して、江ノ口川と鏡川に挟まれた地域に城下町を建設し、まさに「河内」であったこと、そしてその計画が現在の高知市にも引き継がれていることが分かる。城下町はどこでもそうだが、堀を巡らし、水の都でもあった。また、郭中と上町を隔てる部分にまだ堀が建設されておらず、河道と池しかないことや、現在のかるぽーと前の堀がまだ貫通していないことも興味深い。ここが貫通するのは、貞享四(一六八七)年のことである。
現在も高知市では、さまざまな都市整備事業に取り組んでいる。我々の先人は四百年かけて営々とこの都市を築いてきたと言えよう。
[こうちミュージアムネットワーク 高知市民図書館館長 筒井 秀一]
●350年ほど前の高知市。中央左側の堀で
囲まれた部分が高知城。(写真は部分)