昭和三五(一九六〇)年、文壇で注目された高知県出身の作家・大原富枝の小説『婉(えん)という女』。土佐藩の家老・野中兼山の死後四〇年間、宿毛の地に幽閉された兼山の娘・婉が主人公として描かれており、この作品は、今もなお多くの人々に読み継がれている。
国道三二号線を高松方面へ車を走らせ、大豊から国道四三九号線に入り、吉野川を上流へ約九キロメートルさかのぼると、やがて四国山脈の中央部に位置する町並みが見えてくる。ここはかつて、若宮公園・上町公園など桜の名所としてにぎわった、富枝のふるさと長岡郡本山町である。吉野川を挟んだ目の前には、標高四〇〇メートルの雁山(がんざん)がそびえ、その裾野には帰全山(きぜんざん)が広がっている。この山には、兼山の母・秋田万(まん)(秋田夫人)が葬られている。
江戸時代、本山町は兼山の所領地であった。慶安四(一六五一)年四月四日、兼山は六六歳でこの世を去った母をしのび、儒学の礼に従って直方体のひつぎに母の遺体を葬り土葬した。それまで火葬の風習があった土佐において、それは驚くべきことであった。
墓穴は、千人ともいわれる人々によって掘られ、穴の壁も石で築かれた立派なものであった。台上にある石碑は、高さ六尺五寸(約一・八メートル)、幅二尺五寸(約七五センチメートル)、厚さ一尺(三〇センチメートル)で、柵を巡らせ屋根が造られている。これは、兼山の母親に対する孝心(こうしん)を精いっぱい表現したものであろう。兼山は、高知から本山まで、約七里(約二七・五キロメートル)の山道を母のひつぎとともに歩き、帰全山に葬った後は、三年間の喪に服した。
墓所となった帰全山は、兼山の友人で儒学者である山崎闇斎(あんさい)が、中国の古典から引用した「父母全生之、子全而帰之、可言孝矢」から名付けられたといわれている。これは、「父母は誠実に心を持って子を産んでいる。子は誠意をもってこれに報いる」という意味である。
その後、兼山は幕府から謀反の嫌疑を掛けられる。礼を尽くして盛大に営まれた母の葬儀が、皮肉にも失脚の要因の一つとなってしまったのである。
[こうちミュージアムネットワーク 高知県立文学館 学芸課長 津田 加須子]
●野中兼山が母のために建てた墓
(長岡郡本山町)