はりまや橋交差点を南へ進み、一つ目の信号を左折した北側歩道に、かつて豪商として繁栄した美濃屋・武藤致和(よしかず)(一七四一〜一八一三)の邸宅があったことを示す小さな石碑が立っている。
この周辺は、高知城下町建設の初期に整備された朝倉町で、北の浦戸町や南の弘岡町とともに、藩政時代には多くの商人や職人が住むにぎやかな町であった。武藤家がここに居を構えたのは、致和の父・光成の時のようである。武藤家の先祖はもともと美濃国(現岐阜県)出身の武士で、戦国末期に土佐に移り住み、長宗我部氏や山内家に仕えた。
山内家に禄(ろく)を返上した後、武藤家は商人として呉服業や石灰業に携わり、致和の代には薬種業も手掛けていた。また、致和は町年寄などの公務や藩からの御用銀の命を受けるなど、豪商としての隆盛を極めていたようである。
しかし、武藤致和の名が後世にまで残ることとなった最大の理由は、彼が子・平道(ひらみち)らとともに編さんした大史料集『南路志』によってである。
土佐の歴史・地理・民俗・宗教・文学などに関するさまざまな資料を百二十巻にまとめ、文化十(一八一三)年に完成した『南路志』。致和は「子孫の勉学のため」と編さんの意図を記しているが、彼が奥宮正明の『土佐国蠧簡集(とさのくにとかんしゅう)』や中山厳水の『土佐国編年紀事略(とさのくにへんねんきじりゃく)』といった、谷秦山以来の土佐の実証的な学問研究の潮流を強く意識し、その影響下にあったことは間違いない。多くの知識人が協力した『南路志』編さん事業のために、武藤家は持てる財をつぎ込んだと伝えられる。
このように武藤家が家運をかけて編さんした『南路志』の原本は、惜しむべきことに昭和二十(一九四五)年の高知空襲の際に焼失してしまった。しかし、残された写本によって出版がなされ、現在においても、例えば地域の歴史をひもとく際に『南路志』はもっとも基本的な文献の一つとして用いられ、非常に有効な歴史地理辞典的な力を発揮している。
美濃屋・武藤致和が遺した大史料集は、われわれに藩政時代の土佐の様子を伝えると同時に、歴史や記録をきちんと後世に伝えていくことの大切さをも教えてくれるのである。
[こうちミュージアムネットワーク 高知県立図書館 渡邊 哲哉]
●武藤致和邸跡を示す石碑
(南はりまや町)