土免とは、藩が年貢を賦課する際の税率を言う。年貢は田畑や屋敷などに対して賦課され、藩が決定して各村に文書で通知していた。その文書が「土免定」である。土免定には表題、土地に対する税率、村への指示文言、発給者名などの奥書が記されている。
下の写真は、文久元(一八六一)年七月に吾川郡秋山村(現春野町秋山)に宛てた土免定である。発給者は「乾退助」、後に自由民権運動の指導者として活躍する板垣退助のことである。
乾退助は、万延(まんえん)元(一八六〇)年九月に免奉行に任ぜられた。このことについて、当初彼は免奉行就任を断ろうとしていた。しかし、吉田東洋の助言を聞き入れ、ようやく就任したというエピソードがある。それは、文より武を好むという、当時の彼の性格によるものとみられる。
この土免定発給から三カ月後、退助は江戸御留守居御内用役(おるすいごないようやく)として江戸へ上った。免奉行を務めた期間は約一年ほどであったため、短期間のうちに発給されたこの土免定は貴重なものであるといえる。なお、退助が発給した土免定は土佐郡森郷(現同郡土佐町森)に宛てたものも残っており、免の設定に当たっては複数の郡に関わっていたことが分かる。
写真の土免定には、土免の対象となった新田に関連して「岡崎猪十郎(いじゅうろう)」の名が見られる。猪十郎は秋山村老(としより)も務めた有力者で、彼の子孫も地域の名士となり、村長を務める者も現れる。その中の一人が、社会運動家として活躍した岡崎精郎(せいろう)である。猪十郎にとって精郎はひ孫にあたる。
また、猪十郎の親戚には郷士の島村右馬丞(うまのじょう)がいる。右馬丞は幕末期の第一級史料である『春秋自記帖(しゅんじゅうじきちょう)』という日記を残したことで知られる。それには、右馬丞が猪十郎の家で安政南海地震に遭ったことなどが記されており、両家の親密な付き合いがうかがえる。
以上のように、この土免定はその内容もさることながら、登場する人物についても多くを知ることができる興味深いものである。
なお、この土免定は十一月二十日まで春野郷土資料館で展示しているので、ぜひご覧いただきたい。
[こうちミュージアムネットワーク 高知市春野郷土資料館 学芸員 徳平 晶]
●板垣退助が免奉行
就任中に
発給した土免定
(春野郷土資料館所蔵)