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このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。 | ||||
執筆「こうちミュージアムネットワーク」の皆さん |
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●仁淀川の流れを一望できる高台に立つ石碑(いの町成山) 仁淀川の豊かな水の恵みを受け、古くから紙の町として栄えてきた「いの町」。このいの町成山の高台には「紙業界之恩人新之丞君碑」と刻まれた碑が立っており、土佐和紙の起源ともいわれる「土佐七色紙」にまつわる哀話(あいわ)が語り継がれている。 その昔、成山で病に倒れていた遍路姿の旅人を、養甫(ようほ)と家友が介抱した。養甫は長宗我部元親の妹、家友は安芸国虎の次男・安芸三郎左衛門家友、そしてこの旅人が、史実としては語られることのない、伊予の国の“新之丞”である。 一命を取りとめた新之丞はそのお礼として製紙技術を二人に教えた。その後、三人で研究を重ね、草木染を施した美しい七色の紙を創製した。数年後、帰国の途についた新之丞を、製法の秘密が村の外に漏れることを恐れた家友が、仏が峠で斬殺したという。 この言い伝えについては諸説あり、その信憑性(しんぴょうせい)は定かではない。しかし、新之丞が実在したことを裏付ける決定的な資料がないにも関わらず、この話は「土佐七色紙伝説」として定着している。 その後、土佐七色紙を山内一豊公に献上した家友は、御用紙方役に任命され、二十四人の紙すき職人に「御用紙」をすかせた。御用紙すきの職人は、田畑を与えられ、紙の原料の収集や、燃料の薪(まき)とするための藩有林の伐採も自由に行うことができるなど、特別な保護を受けると同時に、秘密保持のために厳重な監視の下(もと)に置かれた。 こうした保護の下、江戸時代に御用紙すきの家に生まれた吉井源太は、簀桁(すけた)(紙すきの道具)の改良や土佐典具帖紙(てんぐじょうし)といった多くの紙を発明するなどの偉大な功績を残し、土佐和紙発展の礎を築いた。これら先人の技術と志は今なお受け継がれ、県内では現在でも約三十名の手すき和紙職人が紙すきを生業としている。 土佐和紙の歴史を知る上で欠くことのできない「土佐七色紙」の創製については、まだまだ興味深い謎が残る。人物から歴史をひもとくと、また違った発見がありそうだ。伝説の真偽に関わらず、先人たちの仕事一つ一つが積み重なり、土佐和紙を日本三大和紙の一つに数えられるまでに発展させたことは言うまでもない。 土佐和紙の歴史も、視点を変えると誰かの歴史の積み重ねである。 こうちミュージアムネットワーク いの町紙の博物館 畑山 里美 |
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