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このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。 | ||||
執筆「こうちミュージアムネットワーク」の皆さん |
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●新市町付近の恵美須神社(現在の新堀公園西隣) 幕末から明治にかけて町絵師として土佐で名を馳(は)せた絵金は、お城下新市町(しんいちまち)(現はりまや町二丁目)に生まれた。画力が認められて江戸に上る十八歳まで、この辺りで幼年期から青年期を過ごした。絵師として開花するまで、絵金は人としての素地をこの町でどのように培ったのだろう。 当時の新市町は紺屋町、材木町、細工町などに囲まれた下町(したまち)で、定期市が立つ商工業の町であった。絵金の最初の師となる筆墨商(ひつぼくしょう)・仁尾(にお)家も、この町で天和年間(一六八一〜一六八四)ごろから墨の製造を始めている。南部には現在も商売繁盛の神・えびす神を祭る小さな社(やしろ)が残されていて、当時の町の面影をしのぶことができる。 楠瀬大枝(くすのせおおえ)著「燧袋(ひうちぶくろ)」によると、絵金は「髪ゆひ何かしといふものゝ子」であったという。式亭三馬(しきていさんば)著「浮世床(うきよどこ)」に描かれるように、絵金が育った当時の髪結床は庶民の気の置けない社交場だった。後に大成させた芝居絵屏風は、血生臭い極彩色の強烈さで見る人を驚かせたが、そこに登場する人物たちは武士や百姓から遊女、老婆、子どもに至るまで、実に表情豊かで生気に溢(あふ)れている。また「土佐年中風俗絵巻」といった淡彩でスケッチ風に描かれた作品からは、人の動きや感情に対する細やかな観察力がうかがえる。自らの才覚で世を渡る商人や腕一本で身を立てる職人たち、彼らの人間模様を肌で感じた日々が、いわば絵金の原風景ではなかっただろうか。 若くして江戸に上り、約三年の修業を経て土佐藩家老の御用絵師となった絵金は、贋作(がんさく)事件に関与した疑いで職を解かれ、町絵師となる。その挫折は創造のエネルギーに転化され、絵金は赤岡をはじめとする浦々の町で才能を開花させていった。晩年、生家付近に居を構えたその家には来客が絶えず、絵金は客たちと話をしながら筆を走らせ、描いた絵を次々と土産に与えていたという。 ことし十月五日、新市町に程近いはりまや橋商店街で、絵金生誕祭が初めて行われた。彼の残した数々の絵が世代を越えて引き継がれ、新しい創造の糧となることを天上の絵金は喜ぶに違いない。 こうちミュージアムネットワーク絵金蔵 学芸員 福原 僚子 |
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