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このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。 | ||||
執筆「こうちミュージアムネットワーク」の皆さん |
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●筆山公園に建てられた吉井勇の歌碑 いのち短し恋せよ少女(おとめ)。
大正期の流行歌『ゴンドラの唄』の作詞家で知られる吉井勇。彼は明治から大正、昭和を生きた歌人で、数多くの短歌を残している。全国各地を旅したことから漂泊の歌人とも呼ばれた。勇が高知を初めて訪れたのは、昭和六(一九三一)年五月のことである。 「海は荒かりしかども空あかるく、風光の美そぞろにわが心を惹くものありき」(吉井勇の歌集『人間經(きょう)』巻四その二詞書より) 船で大阪から高知へたどり着いた勇は、美しい海と空を眺め、高知の魅力を感じ、後に『土佐百首』という題で短歌を作った。 その後、昭和九年に香美郡在所村猪野々(現・香美市香北町猪野々)の山峡に草庵「渓鬼荘(けいきそう)」を建て、約三年間を過ごした。隠居前の家庭内不和で傷心しきっていた勇だったが、静かな山峡で自己を見つめ、里人の温かさに触れて心の平穏を取り戻していった。 昭和十二年十月、東京から新しく妻・孝子を迎えて結婚生活を始めるため、高知市上町の築屋敷に転居した。新居では、鏡川の川岸から筆山や鷲尾山の景観を楽しんだという。それまでの孤独な日々から脱し、穏やかな生活がやってきた。そして一年後、終生の地・京都へ移り住んだ。 勇が七十一歳の時、高知に歌碑を建てる話が舞い込んだ。建立場所は筆山の山頂広場。短歌は『土佐百首』のうちの一つ「つるぎたち土佐に來(き)たりぬふるさとをはじめてここに見たるここちに」が選ばれた。 昭和三十一年十一月二十三日、除幕式が執り行われた。この日、京都の勇は病気のため参列できなかったが、次のような謝辞の手紙を送った。 「私(わたし)が今日(こんにち)あるを得たのは、廿(にじゅう)数年前に数年間、韮生(にろう)の山奥にわび住みをしてゐ(い)た時、温かい心で流離の身をいたわつて下すつた土佐の方々の厚い情誼(じょうぎ)だと思つて、感謝の念に堪へないと同時に、人間の不思議なる運命を思はずにはゐられません。(中略)筆山よ鏡川よとなつかしむ思ひは風に寄せて送らむ」 ほかにも、県内には猪野々や桂浜、室戸岬、龍河洞など勇が来訪した地に二十基以上もの歌碑が建てられており、勇の見た風景とともに短歌を味わうことができる。 こうちミュージアムネットワーク 香美市立吉井勇記念館 学芸員 宗石 聖(むねいし しょう) |
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