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このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。 | ||||
執筆「こうちミュージアムネットワーク」の皆さん |
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●筆山公園に建てられた吉井勇の歌碑
アジア太平洋戦争(一九四一年〜一九四五年)当時の高知の様子を示す遺跡を調べ歩いている。中国に派兵され左胸に銃弾を残したまま帰国した父と、高知で風船爆弾の紙をすかされていた母の戦争の体験を聞いて育ったことが影響しているのかもしれない。現在調べていることの一つは、満州(中国東北部)から高知にやってきていた日本陸軍の輜重兵(しちょうへい)連隊のことである。
一九四五年の春、アメリカ軍が高知県に攻め込んでくることを想定し、県内への日本陸海軍の配備が強化された。数年前に出会った男性は、「満州にいたわたしたちの輜重兵連隊も高知に集結した。伊野町(現いの町)から始まり、針木、一宮と転戦しながら本土決戦に備えて横穴壕(ごう)をつくっていった」と教えてくれた。 その遺跡を探して仲間と歩き、いの町、針木、一宮の山中に横穴壕がいくつか残っているのを発見した。一宮の横穴壕には壕の前に爆風よけらしきものが築かれており、壕の中には補強のために使っていた丸太も残っていた。 そんな中、一宮の善楽(ぜんらく)寺の境内で、一九八四年に建てられた「平和之塔」(写真)と出合った。これは「一宮の山麓」の駐屯地で終戦を迎えた輜重兵第十一連隊第一中隊の隊長の碑である。 一九三八年、同中隊は香川県善通寺から満州に九三〇部隊で出兵し、ソ連国境の警備に当たっていた。その後、一九四五年四月、本土防衛のために高知県に来て、伊野町、高知市付近で陣地を構築し、輸送任務に就いていたとある。 この碑の裏側にある碑文は、同中隊の隊長だった立町(たてちょう)芳行さんのものである。隊員の出身地は、高知県、愛媛県、徳島県、香川県とさまざまだが、できるだけ多くの元隊員を訪ね、当時の様子を聞きたいと思っている。 「なぜ、そんなことを調べているのか」と聞かれることがある。それは立町さんが平和之塔に刻んだ「二度と再び戦争を起さないことを誓い、永久の平和を祈念してこれを後世に伝える」と同じ思いである。 こうちミュージアムネットワーク 平和資料館・草の家 学芸員 藤原 義一 |
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