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このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。 | ||||
執筆「こうちミュージアムネットワーク」の皆さん |
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●弘人屋敷跡遺構の完掘状況
これまで高知城下町の歴史的研究については、主に文献史学や歴史地理学から進められてきた。しかし近年、高知城周辺の官公庁舎の建て替えに伴い、本格的な発掘調査が行われるようになり、考古学からも城下町の研究に迫ることが可能となってきた。
注目される事例の一つに、城下町の形成が一般的な認識よりも随分とさかのぼることが明らかになってきたことが挙げられる。 司馬遼太郎の『功名が辻』の一節に「城に予定している大高坂山は海抜百五十尺で城郭をつくるにはなるほど手ごろだったが、ふもと一帯は、歩けば腰まで泥のなかに沈むほどの大湿地帯だった」とある。しかし、発掘調査の結果からこのような状況を見いだすことはできない。 「高知県新資料館」建設に伴う弘人(ひろめ)屋敷跡の調査では、現地表下一・二メートル程の所に、北東から南西に平行して延びる二条の溝跡を検出した。幅は一〜二メートル、深さは五十センチ前後、断面形は台形状のしっかりした溝である。その中からは、十一〜十二世紀の土器類がまとまって出土している。周辺からは同時期の土坑も数基検出されており、布目瓦も出土している。今から千年近く前の平安時代には、すでに安定した生活空間となっており、瓦の出土から寺院の存在もうかがわれる。 十五世紀に入ると遺構・遺物が急増し、十重二十重(とえふたえ)と繰り返し遺構が掘られている。これは、人々の活動が活発化した証である。 ここで注目すべきは、東西・南北方向に延びる大溝の存在である。この溝は、現在の追手筋に平行あるいは直交して延びる屋敷の区画溝である。平安時代のものとは大きく異なった地割りが採用されており、基本的な軸線は江戸時代に踏襲され、現代につながっている。山内氏は入国以来、城下町の発展に尽力したところだが、その基礎はすでに十五世紀には形成されていたことになる。 このほかにも、発掘調査を通して日常生活や風習など、当時の社会を知る上で重要な情報を豊富に得ることができた。このような歴史の情報を蓄積していくことは、高知の魅力をより高めていくことにつながるであろう。 こうちミュージアムネットワーク 高知県埋蔵文化財センター 出原 恵三 |
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