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このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。
歴史万華鏡
執筆「こうちミュージアムネットワーク」の皆さん
第34回 愛妻家・武市半平太
高知市広報「あかるいまち」2015年2月号より
武市半平太邸跡碑。実際の邸宅は三十メートル東の道路北側付近と推定される。
●武市半平太邸跡碑。実際の邸宅は三十メートル東の道路北側付近と推定される。
 菜園場町駅から北西へ数分歩いた所にある横堀公園に、「武市半平太邸跡」と刻まれた石碑がある。そして石碑の横には、「半平太と妻・冨を偲ぶ『夫婦石』」と、カップルが自分の名前を石に書いて交換して持ち帰る「半平太と冨さんのラブストーン(愛伝石)」が設置されている。これは半平太が愛妻家だったことにちなんでいる。

 半平太が妻に送った手紙は二百通余り現存する。手紙には、京都での活動や、獄中での暮らしぶり、同志たちの取り調べに関する詳細、そして家族を思いやる温かい言葉がつづられている。半平太が妻に活動内容と獄中の詳細を手紙で伝えたのは、妻が最大の理解者であること、そしてうがった見方をすれば、自らの信条と行動を後世に伝えようという意図もあったと思われる。

 彼の手紙には、「武士の妻として恥ずかしくない生き方をしてほしい」とか、「半平太の妻として誇りをもって生きてほしい」といった言葉がよく出てくる。これらは亭主関白的な発言ではなく、妻を気落ちさせないための気遣いであろう。というのは、文久三(一八六三)年十二月二十日付けの手紙で、「己の信じることにしたがって精一杯行動したので悔いはない」と述べている。つまり、夫が投獄されたことで世間から後ろ指をさされようとも、「うちの人はお国のために一生懸命頑張ったから世間様に対して何も恥ずかしくはない」と、気丈に生きる力を持たせようとしたのだろう。

 そして、妻への究極のラブレターが、元治元(一八六四)年五月末ごろに送られた手紙である。そこには「もしこの世で会うことが叶わなければ、あの世で話をしよう」と書かれている。

 この言葉の前には、吉田東洋殺害と京都での天誅に関する取り調べがいっそう厳しくなり、自分もいつ死ぬことになるか予断を許さない状況だと書かれている。この絶体絶命の状況下でなぜあのような言葉がでるのか。これも妻への気遣いであり、冨が最愛の人であることを表したものだろう。

 石碑を訪れる際は、そんな夫婦愛に思いを馳(は)せてみてほしい。

こうちミュージアムネットワーク 中岡慎太郎館 学芸員 豊田 満広
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