高知市
あかるいまち 高知市トップへ
高知市トップページ  > あかるいまちトップページ  > 歴史万華鏡(もくじ)  > 2015年3月号
このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。
歴史万華鏡
執筆「こうちミュージアムネットワーク」の皆さん
第35回 高知の移民事業
高知市広報「あかるいまち」2015年3月号より
高知市の竹村邸で撮影された移民事業関係者
●高知市の竹村邸で撮影された移民事業関係者
 戦前、移民は移民会社の仲介で海を渡った。また、移民会社とは別に移民取扱所というものもあった。

 明治四十三(一九一〇)年に蒲原文英堂から出版された『訪問記』(宮地猛男著)には、当時高知市内で営業していた移民取扱所を訪問した短いレポートが記載されている。

 著者は、土佐新聞社前(現・帯屋町)の横町を南に入ったところにある新しい小奇麗な洋館を訪ねる。そこには「移民取扱所」と「明治殖民会社高知出張所」という二つの看板が掛けられているが、中には誰もいない。「不在の折は北へ二軒目を訪ねよ」という張り紙に従うと、「楠瀬」という表札のある質屋に行き当たり、そこの主人が語る。

 「明治三十七年ごろ、『公心館』(詳細不明)で商売をしていた時分は、年間四〜五百人の移民を扱って羽振りがよかった。ところがその後、アメリカで日本人排斥運動が起き、ハワイやメキシコといったところに移民を送ることができなくなった。今や扱っているのはペルー移民だけという苦境に陥っている」

 洋館は公心館時代の好景気で建てられたものだろう。それが今では、別業で生計を立てざるを得ないということか。

 「厳しい状況下、移民会社の合併や破綻が続く。後に残るのは、地盤強固な竹村與右衛門(よえもん)のところだけだろう」という楠瀬の予言でレポートは終わる。

 この本が出版されたのは明治四十三年だが、訪問自体は恐らく明治四十年ごろと思われる。明治四十一年、水野龍率いる皇国植民会社は、ほかを出し抜いてブラジル日本移民送出事業を開始し、新時代を開いたが、一度きりで失敗し、事業は竹村殖民商館に引き継がれる。楠瀬の予言どおり、大正時代のブラジル移民事業は竹村與右衛門が主導した。

 写真は、昭和十六年ごろ、高知ゆかりの移民事業関係者が勢ぞろいした一枚である。写真左端は水野龍、隣の和服男性は竹村與右衛門の子息である。右端は昭和になって設立された移住組合の尾ア卓爾(たくじ)と思われる。その隣の背広姿の男性は、楠瀬の子息で二代目移民取扱所の経営者でもある楠瀬大太郎である。

 高知と移民史とのつながりは長く、深い。

こうちミュージアムネットワーク 特定非営利活動法人 地域文化資源ネットワーク 中村 茂生
▲このページの先頭へ
高知市トップページ  > あかるいまちトップページ  > 歴史万華鏡(もくじ)  > 2015年3月号
Kochi city
All Rights Reserved. Copyright Kochi-city.