●火災の始末と復興支援を記し た皆山集(県立図書館所蔵) 防火体制が未整備で、多くの建物が木と紙で造られていた江戸時代、各地の城下町では火災が頻発した。高知城下もしかり。北奉公人町(現上町)出火で侍屋敷や商家など一説では数千軒を焼き尽くしたとされる「元禄十一(一六九八)年十月の大火」、小高坂越前町からの連日の出火で、高知城天守をも焼亡させた「享保十二(一七二七)年二月の大火」など、千軒以上を焼き尽くす、信じがたいような火災が藩政期には幾度も発生している。そのうちの一つ、享和元(一八〇一)年大晦日に発生したのが「俵屋焼(たわらややき)」である。『皆山集』十五巻(刊本六巻)には、この大火の経緯と直後の復興支援の様子を記す「俵屋焼始末」との一文がある。
早朝、細工町(現帯屋町一丁目付近)からあがった火の手は、西風にあおられ、下町(しもまち)および新町(現北街および南街)さらには下知方面にまで燃え広がり、およそ千百戸を焼いたとされる。年の瀬の大火は、お城下の人心をどん底に落とし込んだと考えられるが、驚くべきことに復興への第一歩は翌日の享和二(一八〇二)年元旦に記されている。この日、藩からは被災者への炊き出しの手配や物価統制、年末締めであった決済の期限延長等に関わる命令が出された。また、二日には被災者への小屋掛け料(仮設の小屋を建てるための手当)の支給が決まり、七日には住宅再建支援のため、本来はお城下での仕事を禁じられていた郷浦(ごううら)(農村や漁村)在住の大工を被災地に招請することや、建築資材である竹木への口銭(こうせん)(税)免除などが決定される。そのほかにもこの一文からは、わずか一カ月足らずの間に炊き出しのために私財を提供した者への褒賞や、火元となった商家に対する責任追及が矢継ぎ早に進められたこと、防火や治安維持のため夜回りが奨励されたことなどが読みとれる。
残念ながら史料は被災者の声を伝えてはいない。ただ、為政者による果断な行政的対応は十分に評価できよう。近未来に予想される南海トラフ地震への対策が急務の高知市にあって、この二百年余り前の復興支援には模範とすべきものがある。
こうちミュージアムネットワーク 高知県立図書館 坂本 靖 |