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このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。 | ||||
執筆「こうちミュージアムネットワーク」の皆さん |
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●『高知新聞』の発行禁止を伝える広告 (『高知自由新聞』明治15年7月15日掲載) <心意気と目標> 「自由ハ土佐ノ山間ヨリ」「明治第二ノ改革ヲ希望スル」 これは、土佐の自由民権運動の心意気と目標を表現した言葉で、共に植木枝盛の文章に登場する。 土佐における民権運動の中心は立志社で、明治十(一八七七)年に自由民権運動を広めるための活動を開始した。演説会は「殆ンド毎夜ノ如シ」「聴衆雑踏甚シ」という盛況ぶりで、同年八月には機関誌『海南新誌』を創刊した。 「自由ハ土佐ノ山間ヨリ」はこの時初めて登場する。植木は海南新誌の第一号「緒言(しょげん)」で、「天下ノ人称シテ、自由ハ土佐ノ山間ヨリ発シタリ」と将来いわれるように頑張ろうと宣言したのである。 この「山間」とは文字通りの「山間部」ではなく、僻遠(へきえん)の地・土佐全体を表したもので、他県から見て四国山脈の向こう側から「自由」 が沸き起こってくるというイメージだと思われる。 さらに植木は、海南新誌の第五号に「明治第二ノ改革ヲ希望スルノ論」を発表した。 「戊辰ノ如キハ、政府ノ変換ニシテ政体ノ変革ニ非ズ-人民ヲシテ政権ヲ掌(つかさど)ラシム可キ也」 つまり、明治維新は不徹底な改革であり、これから第二の改革を成し遂げて人々が政治に参加し、その代表による政権運営を実現しようと主張したのである。これが後の自由民権運動となる。 しかし、城下町の士族民権家が声高に天下国家を唱えても、人々が参加する運動が進むわけではない。活動を推し進めるためには、何らかの「手段」が必要であった。 <伝える努力> 自由民権思想を伝える主要な手段は新聞であった。したがって、民権家は新聞発行の継続に多大な努力を払っている。 機関紙の『高知新聞』は、明治十四年十月以降五回の発行停止を受けており、民権家は代わりに『土陽新聞』『高知自由新聞』を発行し、機関誌を継続していた。しかし、翌年七月十四日、ついに高知新聞が発行禁止命令を受ける。そこで、民権家は新聞に死亡広告を掲げ、同月十六日に高知新聞の葬式を行った。葬式では棺が準備され、本町の新聞社から青柳橋を渡り、五台山で火葬したという。さらに高知自由新聞も同月二十一日に発行禁止となり、二十六日に再び新聞葬を行った。会葬者は一万人に達したといわれている。 演説会は次第に各地域で盛んになり、諸方から立志社などに演説依頼が増加した。そして、明治十五年半ばからは懇親会が県下各地に広がっていく。 懇親会は、民権家や地域の有志による演説のほかに、飲食や各種イベントが付属することもあった。高知市街地では地区別・職種別、郡部では町村単位で開催され、さらに複数地域合同の懇親会も同時進行していた。そのほかにも、旗奪い懇親会や巻狩懇親会、魚漁懇親会など、お祭り的な懇親会もあった。県下に民権運動が広がっていったのは、この懇親会の隆盛が大きな要因であったといえる。 これらを下支えしていたのが地域の夜学会である。当時の新聞によると、民権派と反民権派双方合わせると夜学会は二百を超え、一大学習運動といえる状況であった。この夜学会で使われたテキストが新聞であったと考えられる。 <娯楽の提供> 一方、民権家は娯楽の要素も見逃していない。 明治十年に民権歌謡の『よしや武士』、明治十二年に『民権田舎歌』『民権数え歌』が創作された。「よしや南海苦熱の地でも粋(すい)な自由の風が吹く」という歌詞を聞いたことがある人も多いだろう。 明治十四年夏には、鏡川原の納涼に民権踊りも登場する。また、明治十一年三月七日の招魂祭では鉢巻きに「自由棲処是我郷里」などと書いた青年の行進や、「焼火ハ自由ノ二文字ナリ此時海陸ノ観客ハ自由出来タリ自由出来タリト大呼シ喝采ノ声涌ク」という「自由字焼」の演出もあり、人々を大いに沸かせたという。 このように、新時代になって将来に希望と不安を抱いていた人々に、自由民権思想を伝える努力を続けたことが、土佐を自由民権運動のメッカたらしめたのである。 こうちミュージアムネットワーク 高知市立自由民権記念館 筒井 秀一 |
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