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このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。 | ||||
執筆「こうちミュージアムネットワーク」の皆さん |
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●初代・山内一豊像除幕式の写真(左)と、本山白雲が描いた「山内一豊像」の原画(右)。 高知城の麓、県立図書館前に堂々たる姿で立つ「山内一豊像」。実はこの像、平成八(一九九六)年に再建された二代目であるが、そのことを知る人は少なくなってきた。 初代の銅像は、大正二(一九一三)年に高知開市三百年を記念して建てられたが、昭和十九年に取り壊される。当時は戦時中で金属不足であったため、銅像やお寺の鐘に至るまで弾丸等の材料として供出されたのである。 当時銅像が立っていた藤並神社は、文化元(一八〇四)年の山内一豊二百回忌を機に、同三年に現在の県立図書館を含む野中兼山邸跡に建設された。ここには、土佐藩主の一豊夫妻をはじめ、二代藩主・忠義もまつられていた。参道の入り口にはヒノキの大鳥居が立ち、その奥に甲冑姿で馬に乗る初代の一豊像を見ることができた。 銅像の作者は、宿毛市出身の彫刻家で、高村光雲の弟子・本山白雲である。白雲は、桂浜の坂本龍馬像や室戸の中岡慎太郎像など、有名な銅像を数々制作している。 当館には、山内一豊像の原型(実物の十分の一)や、制作に当たり考えられたいくつかの銅像の下絵が残されている。デザインは全部で三案あり、現在の騎馬像を描いたものをはじめ、一豊が甲冑姿で槍を持って立つ姿などもあり、非常に興味深い。このような資料が当館にあるのは、当時、建設団体の理事長を五藤家当主が務めていたためである。 五藤家は江戸時代、土佐藩の家老職を代々務めており、山内家とはゆかりのある家であった。そのため、建設時には五藤家が中心となり、明治四十一年から六年にわたり広く寄附を募り、当時の金額で資金約三万円を集めた(『一豊公銅像建設費決算報告書並寄附者芳名録』より)。 除幕式の日は、銅像を一目見ようと千人を超える群集でにぎわったという。多くの人が寄附をし、また、除幕当日の藤並神社前広場を埋め尽くした人の多さから、当時の一豊公の人気ぶりがうかがえる。 こうちミュージアムネットワーク 安芸市立歴史民俗資料館 学芸員 門田 由紀 |
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