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このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。
歴史万華鏡
執筆「こうちミュージアムネットワーク」の皆さん
第54回 オーテピアと村田家
高知市広報「あかるいまち」2016年11月号より
枠内はオーテピア建設地。右上に「村田」の文字が見える(『高知城郭内図絵』(部分) 高知県立図書館所蔵)。
●枠内はオーテピア建設地。右上に「村田」の文字が見える(『高知城郭内図絵』(部分) 高知県立図書館所蔵)。
  現在、ひろめ市場の東側ではオーテピアの建設工事が進んでいる。ここにはかつて旧追手前小学校があったが、それ以前の江戸時代にはいくつかの屋敷や建物があった。そこに住んでいた人々も当時の絵図から確認できるが、今回はその中から村田家を取り上げる。
 村田家は、寛永元(一六二四)年より代々藩医として山内家に仕えた医者の家系である。初代の村田白庵(はくあん)は「法眼」という医者の位階にまで昇進し、その評価を確立していた。そして、二代目の康庵(こうあん)はこの白庵を超える名医といわれ、藩主の御側医として江戸に随行するなど、多くの信頼を勝ち得た。
 康庵にはこんなエピソードがある。ある病人を不治の病と診断し、康庵は薬を与えなかった。しかし、病人の家族は「一回でも(名医と名高い)康庵の薬を服用できるならば、たとえ即死しても恨まない」と、ひたすら薬をねだった。康庵も「どうせ治らないのであれば」と思い、薬を調合して与えた。すると、その病人が数日で全快したのである。病人の家族は喜んだが、康庵はこれを深く恥じ、ついには人々に顔向けできないとして、土佐を出ようとした。結局は思いとどまったが、ここから康庵の医者としての力量や仕事へのプライドなどが見て取れよう。
 村田家は当初、追手筋の北側に住んでいた。それが現在のオーテピア建設地に移ったのは、十八世紀半ばとみられ、そのころの絵図とされる『高知城郭内図絵』(高知県立図書館所蔵)で確認できる。それ以降、明治時代に至るまで、村田家はこの場所に住み続けていたのである。
 さて、オーテピア内で開館するオーテピア高知図書館では、課題解決支援サービスの充実と強化を基本コンセプトの一つにしている。その大きな柱が、病気や医療などの情報を提供する健康・安心情報サービスである。この図書館が開館する場所に「土佐医学界きっての名門」(『土佐医学史』)と称される村田家が長らく住んでいたことは、何かの奇縁といえるかもしれない。

こうちミュージアムネットワーク 高知市民図書館 資料管理担当 徳平 晶
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