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このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。
歴史万華鏡
執筆「こうちミュージアムネットワーク」の皆さん
第58回 名教館(めいこうかん)
高知市広報「あかるいまち」2017年3月号より
現存する名教館の玄関部分(佐川町上町地区)
●現存する名教館の玄関部分(佐川町上町地区)

 佐川出身で明治以降に活躍した先人は多い。中でも、激動の幕末維新期を生き抜き明治政府の高官となった田中光顕(みつあき)、民撰議院設立建白書を起草した古沢滋(しげる)、日本植物学の父・牧野富太郎、近代土木の先駆者・広井勇(いさみ)、ブラジル移民の父・水野龍(りょう)など、近代日本黎明(れいめい)期の先人たちの活躍は目覚ましい。
 今回は、この先人たちが皆、江戸時代半ばから明治初期にかけて佐川にあった「名教館」で学んでいることに注目したい。
 「文教の町佐川」の由来ともなった名教館。その歴史は、佐川の六代領主・深尾茂澄(しげすみ)が一族子弟の教育のために、高知城下から崎門(きもん)学派の富永惟安(いあん)の弟子・山本日下(にっか)を招き家塾を開いたことに始まる。これを、七代領主・深尾繁寛(しげひろ)が家臣の子弟たちにも教育の機会を与えるため、郷校(ごうこう)に改めた。さらに、九代領主・深尾重教(しげのり)が長州藩の藩校・明倫館に倣(なら)い、御土居(おどい)(領主の屋敷)近くに校舎を建設し、武道場や射場を備えた文武両道の施設とした。こうして歴代の領主が学問を奨励し、手厚く保護したこともあり、多くの学者が佐川に集うこととなった。
 明治になると佐川領は消滅するが、藩校だった致道館(ちどうかん)の分校として名教館は存続。その後、廃藩置県により土佐藩が消滅するも、商家を中心とした佐川の有志たちにより義校・名教館(名教義塾)として存続し、入学の門を庶民にまで広げた。
 二度の廃校危機を乗り越えた名教館だったが、明治政府による学制施行により、明治七(一八七四)年の佐川小学校創設に伴い、百年を越える歴史に幕を閉じた。
 現在は、現存する名教館の玄関部分を保存改修した建物が上町(うえまち)に移転され、歴史的建造物の一つとして公開されており、名教館の歴史を紹介している。
 少しだけ残念なのは、名教館が終焉(しゅうえん)を迎えて以降の記録がほとんど残っていないことだ。屋根の鬼瓦部分の意匠がバットやボールなどに変わってしまった理由は謎のままである。

こうちミュージアムネットワーク 佐川町立青山文庫 学芸員 藤田 有紀

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