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このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。 | ||||
執筆「こうちミュージアムネットワーク」の皆さん |
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●明治二十七年に授与された緑綬褒章の勲章などが胸に光る(いの町紙の博物館蔵)。 土佐和紙の起源は定かではないが、平安時代の法令集「延喜式」に献上品として「土佐の紙」の名が登場している。以来、今日まで続いているのだから、「紙業王国・土佐」の歴史は古い。それだけに先覚者も多いが、中でも吉井源太の存在は異彩を放っている。 文政九(一八二六)年、吾川郡伊野村の土佐藩御用紙すきの家に生まれた源太は、八十三歳の生涯を土佐紙業の発展にささげ、「土佐紙業界の恩人」あるいは「紙聖(しせい)」とまで称された。 安政五(一八五八)年の江戸滞在中に、市中で紙の消費量を調査した源太は、需要の多さに生産効率向上の必要性を感じ、帰郷後、道具の改良に力を注いだ。苦心の末に完成したのが、今に残る「土佐の大桁(おおげた)」と呼ばれる、大半紙六枚取り・小半紙八枚取りの画期的な紙すき器である。おかげで生産量は飛躍的に向上し、土佐紙業界は急速に発展、紙業王国・土佐を大いに興隆させた。 また、紙質の改良などにも取り組み、薄葉紙(うすようし)類やヤネ入り紙、防火紙など、生涯で発明した新製品は二十八種類にも及ぶ。しかも彼は、私利を顧みずに公益を優先し、刻苦して得た発明や技術を惜しみなく全国に伝えた。 清廉で高潔な源太の人柄を表すこんなエピソードがある。嘉永二(一八四九)年、源太二十四歳の時、暴風雨で仁淀川の堤防が決壊。伊野町は濁流にのみ込まれ、人馬多数が溺死するという未曽有の惨事となった。この時彼は、父や祖父と紙槽(かみすきぶね)を使って、数百人の命を救った。さらに自分の家の穀蔵(こくぞう)を開いて炊き出しを行い、多くの人々の救済に努めた。この人道的行動はやがて藩庁に知れ、御蔵米(おくらまい)を賜るなど厚くその労をねぎらわれた。彼はこのような義侠(ぎきょう)と慈愛の精神を貫き通し、広く世のため人のために献身した。 遺した数多くの業績からも分かるように、源太は土佐紙業の進歩発展を誰よりも願っていた。その思いの詰まった土佐和紙は、今もわたしたちの暮らしに生かされている。 こうちミュージアムネットワーク いの町紙の博物館 掛水 志歩三 |
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