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このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。
歴史万華鏡
執筆「こうちミュージアムネットワーク」の皆さん
源希義(まれよし)の挙兵
高知市広報「あかるいまち」2017年8月号より
伝源希義墓石塔
●伝源希義墓石塔
 介良に「源希義の墓」と伝えられる卵塔(らんとう)型の墓石塔がある。希義は、源氏の嫡流(ちゃくりゅう)源義朝(よしとも)の子で、のちに鎌倉に幕府を開く頼朝(よりとも)の弟である。
 平安時代末期、永暦元(一一六〇)年、希義は九歳の時に、介良に流されてきた。前年の平治の乱で、父義朝が平清盛に敗れたためで、この時、五つ年上の兄頼朝は伊豆に流されていた。
 その後二十年、希義が介良の地でどのように日々を過ごしたのか、残念ながら不明であるが、源氏の嫡流につながる者として、平家方から動きを監視されていたようである。
 治承四(一一八〇)年八月、頼朝が平家打倒を掲げ伊豆で挙兵すると、希義を取り巻く動きも一気に慌ただしくなる。後年、鎌倉幕府が編集した『吾妻鏡(あづまかがみ)』によると、頼朝に味方し挙兵する疑いがあるとのことで、希義を討つように、平家方から土佐の住人・蓮池(はすいけ)家綱(いえつな)と平田俊遠(としとお)に命が下っている。蓮池と平田は、平家の家人(けにん)であり、当時、土佐では平家方の人物が国衙(こくが)(土佐国全体の行政を管掌する役所)を掌握しており、平家方優位の情勢であった。
 蓮池・平田の動向を察知した希義は、同年九月から十一月ごろ、以前からの約束により、夜須荘(やすのしょう)(香南市夜須町)の夜須行宗(ゆきむね)を頼り、介良を脱出する。しかし、希義は行宗と合流する前に、年越山(としごえやま)(JR後免駅北側の山麓)の辺りで、両人によって殺害されてしまう。一族を率いて希義の救出に向かっていた行宗は、野々宮(ののみや)の辺り(香南市野市町)で希義敗死の知らせを聞き、急きょ方向転換、夜須に引き返し、仏ケ崎(ほとけがさき)(手結)から船で紀伊へと渡った。
 以上が史料をもとにまとめた希義の挙兵である。近年の研究では、源氏の嫡流という血統の良さに注目し、希義の動向次第では、土佐や紀伊を拠点とした地方軍事政権が誕生したかもしれないことを推測するものもある。源平の合戦という全国的な内乱状況の中で、土佐で起きた出来事がどのように位置づけられるのか。そのようなことを考えてみるのも、歴史の面白さであろう。

県立高知城歴史博物館 副館長兼企画課長 横山 和弘
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