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このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。
歴史万華鏡
執筆「こうちミュージアムネットワーク」の皆さん
高知城内「堀内寿太郎(じゅたろう)氏寄附庭園」の碑
高知市広報「あかるいまち」2018年10月号より
「堀内寿太郎氏寄附庭園」と刻まれた碑
●「堀内寿太郎氏寄附庭園」と刻まれた碑
 高知城には、江戸時代の遺構だけでなく、明治以降に作られた碑が数多く存在する。その中で、これまで調査された記録が見当たらない謎の石が、昨年十月、同城を案内するボランティアガイドによって発見された。同ガイドによると、「杉ノ段から三ノ丸に至る石段の手前に、「堀内寿太郎」という名が刻まれた碑がある」という。
 年が明けて二月、この知らせを受けた筆者は、問題の碑に行き、拓本を取った。すると、確かに「堀内寿太郎」の文字が浮かび上がったのである。その後、郷土史家の岩ア義郎氏に改めて拓本を実施いただいた結果、「堀内寿太郎氏 寄附庭園」と刻まれていることが判明した。
 堀内寿太郎(壽太郎)とは、文久三(一八六三)年に現・高知市上町に生まれ、東京で製紙工場を建てた実業家である。明治二十九(一八九六)年に「キレー紙(し)」という化粧紙を開発し(商標登録は同三十六年)、これをヒットさせた功績を持つが、現在、県内外でその名はあまり知られていない。『高知県人名事典』には紹介されているものの、研究は及んでおらず、この碑に関して城の管理事務所などに問い合わせても、詳細は分からなかった。
 石碑の奥には日本庭園があり、拓本の結果から推測するかぎり、堀内が関与したと考えられる。庭園を設置するための資金を、堀内が提供したのであろうか。
 堀内は、二十歳頃に高知を出た後、大阪や長崎を経て上京し、大正十(一九二一)年に没する(『高知県人名事典』の「大正九年没」は誤り)まで、ずっと東京に住んでいた。ゆえに、高知出身でありながら故郷とは縁遠い人物であり、県内に残された資料も少ない。だが、この石碑の発見により、実業家として大成した堀内と高知県の接点が、新たに浮き彫りとなった。

 龍馬の生まれたまち記念館では、この石碑や堀内関連の情報を募集しています。また、同館では現在、
10月28日(日)まで堀内に関する特別展を開催中です。

龍馬の生まれたまち記念館 森本 琢磨
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