土佐史研究家 広谷喜十郎

194 是清と小一郎(こいちろう) -高知市広報「あかるいまち」2000年2月号より-
 小渕内閣の中で大蔵大臣に宮沢喜一氏が登用された時、多くのマスコミにより昭和二年の金融恐慌を乗り切った蔵相高橋是清が引き合いに出され、何かと話題になった。
 是清は、明治44年に日銀総裁になり、その後、首相を務めたり、大蔵大臣を7回も務め、昭和11年の二・二六事件で暗殺された人物であった。若き日の是清は仙台藩のアメリカ留学生になったものの、ブローカーの策略にかかり奴隷として売り飛ばされたり苦労している。

 明治元年に帰国し、その後に官界や実業界で活躍していたが、明治22年に銀山経営の目的でペルーに赴いたところ、それがすべてペテンであったことが分かり、国内での農場や鉱山経営もことごとく失敗している。人生のどん底にいた是清を見込んだ人物が、高知市旭出身の第三代日銀総裁の川田小一郎だったのである。
 川田小一郎は、三菱創始者岩崎弥太郎の片腕として活躍していたが、弥太郎の死後、閑静生活を送っていたところ、松方正義の推薦によって、明治22年に日銀総裁となり、日本経済発展のために尽力して、明治29年11月7日、現職のまま病没した。
●川田小一郎の肖像写真 (写真提供:日本銀行)
川田小一郎の肖像写真 この小一郎が、生活に困っている是清に対して山陽鉄道社長のポストに就けようとしたが、「私は官界を断念して実業界に転ずるについては、丁稚小僧からたたき上げねばならぬと考えております。私はこれまで鉄道に何の経験も知識もありません(略)私自身も信念なきにその地位にすわることは良心が許しません。どうせ実業界にお出しなさるなら、やはり、丁稚小僧から出してください」と断ったと、小島直記の『出世を急がぬ男たち』(新潮文庫)の中で紹介している。
 さらに、小一郎が我が家の玄関番になる覚悟はあるかと言ったところ、すぐになりますと返事したという。小一郎はますます彼の人柄に惚れ込んでしまい、直接の正社員ではなく、日本銀行関係の建築事務所の現場主任に任命している。

 吉野俊彦著『歴代日本銀行総裁論』(毎日新聞社)によると、「川田は正規の学歴もなく、また海外に留学したこともなかった代わり、日本銀行に各方面から有為の人材をあつめることに力をつくし(略)これらはいずれも後に日本銀行を背負って立ったのみならず、日本経済に非常に多くの影響をあたえる人たちである」との評価をしている。

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