土佐史研究家 広谷喜十郎 |
199 大阪と土佐(一) -高知市広報「あかるいまち」2000年7月号より- | |
昨年の春には、大阪の土佐堀川にある淀屋橋ステーションから水上バスに乗り、大阪城公園までの周遊コースで、約一時間にわたり両岸の所々に見える桜花の満開状態を満喫しながら、それに、土佐堀川の名前で知られているように、江戸時代に土佐の船舶が往来している姿も想像しながらの船旅を行った。
今春は、かつての土佐藩蔵屋敷跡にある土佐稲荷神社(大阪市西区北堀江)を訪ねてみた。 神社の由緒書に「江戸時代、長堀川(現在の長堀通り)鰹座橋の橋畔なる土佐藩蔵屋敷に鎮座したが、享保年間(1710)藩主、山内豊隆の崇敬するところとなり、蔵屋敷の鎮守神として崇められるに至った。 爾来、山内家は参勤の途次には必ず立ち寄り敬意を表し、造営修復は藩費を以て奉納した」とあるように、土佐藩蔵屋敷の守り神として山内家があつく信仰していたのである。 それに、境内の東参道の入り口近くには、八代藩主山内豊敷(とよのぶ)が寄進した石灯籠もあった。 江戸時代、大阪の長堀にあった蔵屋敷には蔵役人や買物役人などがおり、これを総括する者に大阪在役がいた。実務的な仕事は蔵屋敷に出入りの上方町人から蔵元役を選び、彼らに担当させていた。 後に、土佐問屋を設定して土佐の国産物を主に売買させている。彼らは館入町人と言われ知行や扶持(ふち)を支給されて武士待遇に近い特権を得ていたと言われる。 明治初年に、岩崎弥太郎が大阪蔵屋敷および土佐開成社(現在の西区役所)の総支配人として着任してきたが、やがて、この地を弥太郎が所有するところとなり、ここに住みつき、会社を設けて事業を行った。 神社の東側にあるマンションの側には、三菱の発祥地ともいうべき、「岩崎家旧邸祉」の大きな石碑が建てられていた。 そして、岩崎家が神社の立派な社殿を設け信仰したので、いまでも三菱関係者が参拝によく訪れるという。 なお、社紋の中心部には三菱のスリーダイヤ模様が描かれているのが印象的であった。 それに、桜の木が数多くあり、神社前には土佐公園があるので、桜花の季節ともなれば、たくさんの人々でにぎわうそうである。 |