土佐史研究家 広谷喜十郎 |
200 大阪と土佐(二) -高知市広報「あかるいまち」2000年8月号より- | ||
大阪の土佐稲荷神社の境内には、土佐問屋の流れをくむ「土佐屋久兵衛」の六代、福田与兵衛などの建立した石碑があったり、近くの町通りに土佐ゆかりの白髪橋、鰹座橋の標識が認められるので、かつては土佐の特産物がたくさん持ち込まれ、土佐藩の経済的活動の大きな拠点であったことが理解できる。 江戸時代初頭、土佐藩は江戸幕府への相次ぐ課役かえきに必要な資金を上方商人に依存していたが、借金は年を追って増加し、それが元和(げんな)七年(1621年)になって「土佐守(とさのかみ)殿今の分にては御身上相果つべく候」(藩志内篇(はんしないへん))といわれるほどになったので、藩主山内忠義の命により、仕置役の野中直継(なおつぐ)らが藩政改革を実施した。
これが元和改革といわれるものである。早速、元和八年に長岡郡本山郷の白髪山のヒノキを切り出し、吉野川で本格的な流材をして大阪の市場へ送っている。その結果、一挙に藩の借財を返済しただけではなく、さらに残り金ができたほどであったという。 後にこれが元で大阪の地に白髪町ができたほどである。この時期、大阪にとっては、大阪城の攻防をめぐって二度の大きな合戦をした直後だったので、焦土と化した大阪では材木の需要が極めて高く、町を復興させるために必要だったのである。 そこで、諸国から数多くの材木を入荷しているが、その中でも土佐材木は「拾に八つにて候」といわれるほど他国材を圧倒していた。 『西区史』に「土佐藩の蔵物として廻送せらるる木材は、市場創設の恩義を忘れざる為に〈御材木(おんざいもく)〉と称して市売に第一番に行い、又御材木以外の土佐材木に対しても、市場口銭(こうせん)正味二歩口銭と定められていた」とあるように、土佐材木の大阪市場における地位は独占的なものであった。 そして「御国材木積上(おんくにざいもくつみのぼ)セノ義ハ他国米穀ヲ大阪ヘ運漕スルト同様」(藩志内篇 )といわれるまでに土佐藩の財政にとって大きな役割を果たすようになっていた。 材木だけではなく、土佐の薪もこの時期に大阪の四つ橋の市場に積極的に移出され、これまた独占的な地位を占めている。 |