土佐史研究家 広谷喜十郎 |
201 大阪と土佐(三) -高知市広報「あかるいまち」2000年9月号より- |
大阪の土佐稲荷神社の境内にある江戸時代の石灯籠や狛犬(こまいぬ)、玉垣には土佐問屋と思われる商人たちの名前が数多く刻記されていた。 そして、境内の裏側に回り、大きな狛犬の台石を見たときに一瞬くぎ付けになってしまった。そこに、「岩田屋七郎兵衛」の商人名が刻記されており、この人物については、かつて土佐林業史をまとめている折に、大阪側の商人として承知していたからである。 鰹座橋の表示が見える大阪の道路標識
岩田屋七郎兵衛は、長堀の鰹座に住み、「土佐かけ木問屋」の商人であったが、同じ鰹座に居る岩田屋七兵衛は「鰹ふし問屋」の商人であった。宮本又次著『大坂の風土記』によると、「鰹座橋の名もまた鰹節市場があったことに因(ちな)むものである」と述べているように、神社の近くにある鰹座橋辺りは土佐カツオ節が多量に運ばれた場所だったのである。 岩田屋らの大阪商人を記録した『難波(なんばづる)』は延宝七(1679)年に刊行されているが、この年代の数年後に刊行されている著名な井原西鶴の『本朝二十不孝』(貞享三年)があり、その中に「土佐に身を削る鰹屋」という作品があって「土佐の畑(幡多)と言いふ所に、鰹屋助八とて猟船を仕立て出す者有りしに、かしこく世を渡る海の上を心におさめ次第に分限なりて」と、土佐の幡多郡で大金持ちになったカツオ節商人を紹介している。 さらに、正徳三(1713)年にも大阪で刊行された百科事典の『和漢三才図絵』のカツオ節の条には、「土佐之産ヲ上為(じょうとなす)、紀州熊野次之(これにつぐ)、阿州、勢州又次之」と、土佐のカツオ節の良さは天下に鳴り響いて、その販路が拡張され、大阪市場において圧倒的な地位を占めていたのであった。 土佐のカツオ漁の過程を図版入りで詳細に紹介した記録には、寛政十一(1799)年に大阪で刊行された『日本山海名産図絵』(第四巻)に収録されている「土佐鰹釣」がある。 この本の著者は木村兼葭堂(けんかどう)で、今年の話題作の中村真一郎著『木村兼葭堂のサロン』の主人公であり、筆者も『土佐カツオ漁業史』のなかで紹介したばかりであるが、実は、彼の邸跡の石碑が神社の近くにあって因縁めいたものを感じたものである。 |