土佐史研究家 広谷喜十郎

205 高知城と穴太衆(あのうしゅう)(一) -高知市広報「あかるいまち」2001年2月号より-
 昨年の夏、滋賀県を旅行した折、坂本町の日吉大社へ行った。
 この町は比叡山延暦寺と大社の門前町であって、町内のあちこちに穴太衆が積み上げた立派な石垣が見られた。
 穴太衆は全国的に知られた石工集団で、江戸時代初期に全国各地で城郭建築が行われたときには、これら城壁の構築に参加していた。

 穴太積みは大小の野面のづら石を駆使して積み上げたり、奥行きの長い石を用いるのが特徴で、石垣が堅固であって全国各地の有名な城に、今でも見られる。
 日吉大社の入り口に架けられている大宮橋は、豊臣秀吉好みの巨石を利用しての石橋であって、これが国の重要文化財に指定されているが、石橋で指定されているのは、極めて珍しく、穴太衆の構築した石積み技術がいかに高い評価を受けているかが分かる。
●杉の段から見た三の丸の石垣
杉の段から見た三の丸の石垣

 高知城築城のいきさつをまとめた「御城築記(おしろちくき)」によると、慶長6年(1601)8月に築城総奉行に百々越前守(六千石)を任命し、その子出雲に補佐させ、大工頭は加藤六兵衛(百二十石)、鍛冶頭は木原作右衛門(八十石)、築壁造頭は穴納役あのうやくの北川豊後(百五十石)であった。

 築城工事が開始されると、石材はできるだけ浦戸城のものを取り壊して船で江ノ口まで運送し、ほかに周辺の久万、万々、神田、潮江、朝倉などから取り寄せている。
 そして、慶長8年に本丸・二の丸の工事を完成させ、慶長16年には三の丸を仕上げているが、城の建築物の建設と併行して石垣の築造工事も苦心している様子を、築城記録から数多く読み取れる。
 中でも、三の丸の工事では、近くにあった中高坂山の小丘を崩して、この場所に土盛りしているので、ここでの石垣積みは最も大変な工事だったと思われる。

 新城の地を、慶長8年に河中山(こうちやま)と名付けたものの、その後、潮江川(のち鏡川)と江ノ口川の相次ぐ水害に悩まされた藩主は、この地名を嫌い、慶長15年に竹林寺の空鏡上人が高智山(高知の始まり)と改名した。

 城下町づくりでの両河川工事でもかなりの石積みが行われているので、穴太衆の技術が大いに利用されたことであろう。

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