土佐史研究家 広谷喜十郎

206 高知城と穴太衆(あのうしゅう)(二) -高知市広報「あかるいまち」2001年3月号より-
 高知城の城壁づくりに、大きな役割を果たしていた穴太衆の真価が問われる仕事が舞い込んできた。それは、江戸幕府から土佐藩に対して江戸城、駿府城、名古屋城、丹波の篠山(ささやま)城の城普請(しろぶしん)が相次いで命じられたからである。

●百々越前守邸跡の碑(越前町1 丁目)
百々越前守邸跡の碑
 『山内氏時代史稿』の慶長11(1606)年の条を見てみると、江戸城の石垣普請のために、家老深尾和泉らを伊豆半島の稲取(いなどり)まで派遣し、「伊豆石」を採石させて江戸城まで運送させている。しかも、高知城築城総奉行百々越前守を江戸城に派遣しているので、北川豊後配下の穴太衆も多数参加したことであろう。

 さらに、元和4(1618)年にも幕府の普請御用の石材採出のために伊豆や相模へ五百人もの人々を送り込んで、翌年に大坂城石垣の修復のために角石(かどいし)10個を献上している。他の史料に「割石、弐千」という記録もあるので、かなりの石材が献上されたようである。

 元和6年3月に大坂城修築が始まり、土佐藩の仕事は、石垣1,380坪、堀6,577坪、除土(じょうど)一万六千坪を割り当てられている。この工事に関係した土佐藩の役人が家老野中玄蕃(げんば)、山内左衛門佐(さえもんのすけ)ら51人であったので藩の総力を挙げての大仕事だった。

 そんな訳で、大坂に近い石材産地だけで大坂城の石垣用石材を確保することができず、伊豆の稲取からも多数の石材を大坂へ運送したのである。岡本良一氏は著書『大坂城』の中で、土佐藩は大手口土橋の普請で石垣表面千五百坪の所に、千三百坪分の栗石を使用しているが、慶長年間の相場で一坪が金3両であったと紹介している。第一期工事の際、土佐藩では工事をはかどらせるために二、三千人も雇用する必要があったが、すでに銀8、90貫目にも上る未払い分があるので、人員を送ることを拒否されたこともあったという。

 高知城で城壁づくりに専念していた穴太衆の高い技術が、江戸城や大坂城などの石垣づくりで見事に生かされているといえる。それを記念した大きな石燈籠が五台山竹林寺の文殊堂の前に置かれている。これは藩主山内忠義が正保2(1645)年に伊豆国(静岡県)から取り寄せて建立したものである。

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