土佐史研究家 広谷喜十郎 |
207幻の帯屋勘助(おびやかんすけ) -高知市広報「あかるいまち」2001年4月号より- | ||
長宗我部時代には大高坂山に築城を行うとともに一部に城下町づくりが行われていたものの、それが途中で放棄されているので、本格的な町づくりは山内氏入国の慶長6(1601)年から始まったといえる。 町づくりの過程を知るための的確な史料はないが、明治の著書『皆山集(かいざんしゅう)』の「土佐国名数(とさのくにめいすい)」の中に25カ所の町名の記載があって「唐人町、掛川町、弘岡町、種崎町、浦戸町、蓮池町、朝倉町、以上自古(ふるくより)七町」と、他の町名とは区別して記載してあるので、これらの町々が築城と並行してつくられたのではないかと考えてみたことがある。 ところで、この時期武家屋敷が集住している郭中(かちゅう)の中心地近くに一時期にしろ商人たちの住む帯屋町が存在していたのである。 現在の帯屋町の辺りは、西端に南門や藩主の下屋敷があったことから御(おん)屋敷筋と呼ばれ、東方に南会所という藩の役所や家老の屋敷などが軒を並べていた。そしてその東南に町家があり、正保(1645)2年の帯屋町の「指出書(さしだししょ)」によると、家数は34軒で家の間口の大きい屋敷が存在していたことが分かる。
また、『高知沿革略志』では、「箕浦行直筆記」に記載されている人名の中に勘助という人物名が認められ、これが帯屋勘助という者なので、これにより町名が付けられたと述べている。 ところが、いつの間にか町名はなくなり、寛文年代(1662〜72)の記録には認められない。 それは、封建体制が強化され、身分格式の秩序のために武士と町人との居住地域を区別する必要があったと考えられるからである。 なお、御(おん)屋敷筋には内堀沿いに桜の木が数多く植えられていたので、桜町と呼ばれていた所があり、また元禄11(1698)年の城下町の大火後に、現在の本町と帯屋町との間に「ハマグリ丁(ちょう)」という通りができたのは、蛤を焼くと口を開くとの意味にちなんだものといわれる。 |