土佐史研究家 広谷喜十郎 |
214万徳屋長助(まんとくやちょうすけ)の出世話-高知市広報「あかるいまち」2001年11月号より- |
江戸時代後期になると、農民的商品経済の発展が一段と顕著になり、国産品の生産過程に介入し、発展してきた田村屋(砂糖)、桜屋(石灰や椎茸)のような商人の台頭がみられるようになっている。 また、このような時代を反映して文才を生かして商人から学者になった人もおり、地芝居なども盛んになって庶民文化が花と開くのであった。 坂本龍馬が高知城下の本丁筋に住んでいた天保・弘化年代(1830〜47)のころに、同町内で出世した酒造家の万徳屋長助がいた。長助は「高智本町(ほんちょう)(丁)五丁目於弘小路(ひろこうじにおいて)万徳屋ト唱フ、弘化四年丁未(ていみ)依功業(こうぎょうにより)御目見御免」(『系譜書』)とあるように、道番所(みちばんしょ)のある思案橋近くに住んでいたようである。最初は貧乏人の倅(せがれ)として、同町一丁目の豪商長徳屋で「酒店の樽拾(たるひろい)を務め」ていた。そして、長助は「ヤドヒマ(宿下り(やどさがり))」の時には、高知城下から実家のある安芸郡和食(わじき)村まで帰るのに、途中の物部川での舟の渡し賃三文だけしか使わないという倹約ぶりであった。丁稚小僧といえば、まともな手当てが支給されず盆や暮れにもらえるわずかばかりの手当てが大切なものである。没落した実家をなんとかして再興させたいという志があったので、一文たりとももったいなくて使うことができなかったのである。 ある時、酒気を帯びて城下を通行していた折に役人に呼び止められたが、その態度が横柄だったので役人を投げ飛ばしている。そのため長助は城下から追放されてしまったが、金のもうけ口がないかと、ある漁村で魚の網取りの工夫を考え出して、これが見事に当たり2年間ぐらいで大いにもうけている。 やがて、長助の豪気さと才智がプラスに働いて、城下町でめざましい商業活動をして金をもうけ、酒造家となり、郷士株を買い取り実家をも再興させている。 さらに、長助は、土佐藩を相手に仕送屋(しおくりや)という金融業をも行っていたが、武士の方は二本差しの刀に物を言わせて商人側に無理難題を押し付けることがあった。その折には、長助は火薬5斤を懐中に入れて、武士の家へ行き、「家もろとも爆発させるぞ」と相手を驚かせている。同じ町内に勇気のある才智にたけた長助がいたことが、龍馬の少年時代に大きな影響を与えたかも知れない。 |