土佐史研究家 広谷喜十郎 |
215男爵いもの川田龍吉-高知市広報「あかるいまち」2001年12月号より- |
ことしの七月に北海道への初めての旅行をしてきた。初日には、小樽運河建設功労者で佐川町出身の広井勇工学博士の胸像のある運河公園や近代都市札幌の基礎を築いた宿毛市出身の岩村通俊の銅像のある円山公園などを訪ねてみた。そして、円山公園の側にある北海道神宮へ行き、神社の入口の茶店で冷茶と焼餅のサービスを受けた。この菓子店の包装紙を見てみると、北海道移住を考えていた坂本龍馬の一族の流れをくむ画家坂本直行がかいた絵柄模様があって、何か因縁めいたものを感じてしまったものである。
翌日に、函館市の隣の上磯町のトラピスト修道院のふもとにある、高知市旭地区出身で男爵いもの生みの親の川田龍吉の男爵資料館を訪問した。ここは龍吉ゆかりの農場跡で、大正時代に建設された大きな牛舎の中には、当時の農機具や生活用具、龍吉の遺品などが数多く展示されていた。それに、日本第一号のオーナードライバーといわれている龍吉が愛用していた明治34年(1901)に購入されたアメリカのロコモビル社製の蒸気自動車が復元保存されており、今でも運転できる状態になっているという。さらに、「口の泡より腕の汗」と力強く大書した掛け軸もあって、精力的に農場経営にまい進した龍吉の開拓魂を垣間見た思いをしたものである。龍吉の父である川田小一郎は、三菱財閥創始者岩崎弥太郎を助けて活躍したり、後に日本銀行の第三代総裁を務めた人物である。 龍吉は、明治10年(1877)にイギリスに留学して機械工学を学び、帰国後は横浜ドック会社や函館ドック会社などの重役を歴任したが、明治44年(1911)から農場経営を始め、ヨーロッパ式農場づくりをめざした。そして、イギリスの種じゃがいも「アイリッシュコブラー」を輸入して改良したところ、これが男爵いもと言われるようになり、日本人の好みに合い、広く全国に広まったものである。それに、ろくに食べ物のない時代に男爵いものお世話になった北海道の人々は、終戦直後の昭和22年(1947)に函館市の五稜郭公園の入口に男爵いもをたたえる立派な碑、七飯ななえ町の国道沿いにも発祥の碑を建てた。龍吉は昭和23年(1948)に92歳でトラピスト修道院でキリスト教の洗礼を受け、95歳で逝去された。 |