土佐史研究家 広谷喜十郎 |
217四つ塚さま-高知市広報「あかるいまち」2002年3月号より- | |
平成12年末に山陰や岡山方面への小旅行をしてきた。その年は、高知工科大学での「たたらサミット」で、土佐鉱産史から見た鍛冶神の「一つ目神信仰」の話をしたこともあって、島根県安来市にある和鋼博物館を訪ねた。 博物館は「ヤスキハガネ」という特殊鋼の生産地を紹介するために、平成5年に設けられた。たたら製鉄から近代の製鉄までの関係する道具類が展示されており、土佐山田町の打ち刃物の原料に「ヤスキハガネ」が利用されているので、土佐打ち刃物の製品も展示されていたのが印象的であった。 その帰途、岡山県作東町にある幕末の勤王志士で、土佐人の島浪間、井原応輔(佐川町)千屋金策(葉山村)と岡山出身の岡元太郎の墓を参拝してきた。 この四人は、慶応元(元治2)年(1865)2月22日に諸国遊説の途中この地に来た折、地元の人々から盗賊と間違われ、襲われて自決するという悲劇となった。後に、勤王の志士だったことが判り、手厚く埋葬して、立派な墓を建てたものである。 作東駅の入り口に、昭和44年に建てた高さ2メートルを超える大きな石碑がある。表面に「土居四つ塚勤王烈士 顕彰碑」、裏面には「この東南約十メートルに土居宿駅の西関門があった。元治二年二月、王政復古に奔走中の高知藩士井原応輔と島浪間、岡山藩士岡元太郎はその門外で、高知藩士千屋金策はこの東二百メートルの旅宿泉屋で自刃した」などと刻記してあり、この碑には花が供えられていた。 さらに、4人の墓がずらりと並んで建立されているだけではなく、大正2年の50年祭、昭和32年の慰霊祭、平成12年に老人会が建てた「勤王志士一三五年祭記念」の立派な石碑があり、地元の人々の厚情に頭が下がる思いがした。 島浪間は、先祖が長宗我部氏の一族で長宗我部四郎ともいった。名は義親、藩命を受けて上京し三条実美の護衛役をしていた。その時に、脱藩して奈良での天誅組に加わり、破れて長州(山口県)へ逃亡した。 坂本龍馬が、手紙の中で「島与が二男並馬ハ、戦場ニて人を切る事、実に高名なりしが、故ありて先日賊にかこまれ(略)はらきりて死にたり」(慶応元年9月9日)と残念がっている。 |
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