土佐史研究家 広谷喜十郎 |
224鏡川を考える(4)-高知市広報「あかるいまち」2002年10月号より- | |
鏡村には熊野系の本宮神社があった。中世初めの庄園制の名残りである領家分や地頭分の総鎮守であり、荘官であった今井氏が地頭職を務めていたという。 鏡村梅ノ木にある八坂神社を訪ねたことがある。神殿前に高くそびえている、樹齢500年を超える大杉に圧倒されてしまった。そのわきに、御手洗渕(みたらいぶち)があり、流れ下って、鏡川に合流するのである。「御手洗」という地名や川、池にこだわって少し調べているが、この名前は神社の存在と深く結び付いている。 例えば、高知市神田の熊野系の三所(さんしょ)神社の鎮座する地は、御手洗である。境内社の一つに、水神社もあり、ここが神聖な場所であったのである。 高知市旭地区・杓田の本宮神社は、鏡川橋北詰にある。神社前に、鏡川から分流された小川が流れているから、地域の重要な場所であったということが分かる。 『土佐州郡志』によると、杓田村内にある若一王子宮(にゃくいちおうじぐう)を西宮、本宮明神は東宮と呼ばれていた。本宮神社は永正16年(1519)に、秦氏親(はたうじちか)が大願主(たいがんしゅ)になり再建されたという。この地区の氏神様としてあつく信仰されていた。 また、竹崎五郎著『高知県神社誌』には、「昔、この地にやってきた神様に老婆が杓で水を提供したので、この由緒により村名になった」と紹介している。 そして、ここにも水の神がまつられている。熊野系の神社で、それを示すものとしてサッカーW杯でおなじみになった3本足の「ヤタガラス」の描かれた絵馬が、社務所に置かれている。 |
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