土佐史研究家 広谷喜十郎 |
235 大津波と海岸林-高知市広報「あかるいまち」2003年12月号より- | |
      来年は、安政大地震百五十年目に当たるので、この夏、「稲むらの火」ゆかりの和歌山県広川町にある広村堤防を訪ねてみた。 安政大地震の折、大津波が発生した。村民に一刻も早く知らせようと、浜口五兵衛は稲むらに火を放ち、数多くの命を救ったという。この話を小泉八雲が『生神様』で紹介し、昭和十年ころの『小学国語読本(五年生用)』にそれが採用されたから、ご存じの方もあろう。 モデルとされた浜口梧陵は、地震後に私財を投じ四年の歳月をかけて、三段構えの大堤防(高さ五メートル、総延長六百五十メートル)を築いた。現在、国の史跡として保存されている。さらに、浜口は慶応二年(一八六七年)に私塾・耐久社を創設、明治期には県議会の初代議長も務めている。現在、耐久中学校の校内には、耐久社(県史跡)が保存され、銅像もあり、彼の果たした大きな役割がしのばれている。 広村堤防で注目されることは、その大きさだけではない。堤防の外側二列に松の木が植樹されていることである。 そこで、高知県下の海岸林を調べてみると、津波に関係する話が各地で語り継がれている。 谷真潮の『西浦廻見日記』には、「昔ハ入野の松原六十余町続て吹上川迄生たりしが、亥の大変に松原こけて砂原となれりとぞ」と、宝永四年(一七〇七年)の大津波で壊滅的な被害を受けた幡多郡大方町の入野松原の様子を伝えている。『大方町史』によると、大津波の復旧策として、住民各戸当たり、野生の黒松六本を植えさせて高潮に備えたという。さらに、この植林事業が続けられて、今日の入野松原が形成されたといわれている。 また、高知市浦戸湾入り口にある種崎の松林についても、種崎の歌人・杉本清蔭が「近来この松原大いに繁茂して浪を防ぎたりと見えたり(略)亥大変の節は浅かりしならんか後にこの為に植次て生育せしものなるべし、誠に此浦第一の浦囲にして後世一本も減すべからざるもの也」(『安政大地震記』)と述べているように、防風波林として大きな役割を果たしていたのである。 対岸の桂浜公園の西入り口にも「古キ樹木ハ此地ノ歴史ヲ語ルモノナレバ之ヲ愛護セラレタシ」と刻記された石碑が建てられている。 |
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