土佐史研究家 広谷喜十郎 |
240仙台屋桜-高知市広報「あかるいまち」2004年4月号より- | |
     江戸時代後期、桜の花の魅力に取り付かれて、桜の木を植えることを生きがいにしていた人物がいる。武市佐市郎氏の「武市花之丞」(土佐史談三十一号)によると、長岡郡大篠村(現・南国市)に住む花之丞は、土地の繁栄を願い、あちこちから数多くの桜の苗木を取り寄せていた。住吉山の川辺に植え、春ともなれば、桜花の下で人々が楽しむ姿を見て、大きな喜びを感じていたらしい。   彼は歌人でもあり、風雅を好む人物であったから、「花之丞」という名前を命名されたとも言われる。文政六年(一八二三年)に五十九歳で亡くなっている。   高知城下でも、江ノ口川沿いの桜馬場や、桜井町の名の起源となる(名町奉行馬詰親音ゆかりの)桜井など桜にまつわる話はいくつかある。   その中に「仙台屋桜」と命名された桜の木の話がある。園芸家・武井近三郎氏が『牧野富太郎博士からの手紙』(高知新聞社刊)の中で「佐伯さんという人が仙台から移住してきて、中須賀で仙台屋という屋号で商売を始めたのですが、その屋敷の庭へ移植した桜です。花の色が濃くて美しく開花時期には藩主山内家に差し上げたと言われています。近くの住民が花が美しいので〈仙台屋の桜〉と名付け」たとの由来を述べている。この桜は、「佐伯さん」の郷里・宮城県のベニヤマザクラだろうとされている。   牧野博士は、これがとても気に入ったとみえる。昭和二十五年ごろ、武井氏あてに「高知市中須賀にセンダイザクラが今でも残っておれば高知の名物の桜にするべし」と書き送っているほどである。昭和二十八年五月の手紙でも「仙台屋ザクラの苗木、接木ができましたなら其苗を御送り下さいますれば大幸に存じます。昨年御恵みの牡丹ザクラと並べて植え我庭の銘木にしたいと存じます」と苗木の無心をしている。その後も、この桜にこだわって、武井氏もあきれるほど繰り返し手紙を寄せている。   近年、「天狗の巣病」にかかって花をつけない桜が目立つようになってきた。「仙台屋桜」などの山桜系の木に注目し、それを育成しようとの動きも起こっている。 |
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