土佐史研究家 広谷喜十郎

242秦地区の史跡(二)-高知市広報「あかるいまち」2004年6月号より-


 慶長六年(一六〇一年)に遠州(静岡県)掛川から、山内氏が土佐へ入国し、すぐに築城を開始した。『高知城築城記』によると、築城に必要な石材、木材を秦泉寺村など周辺の村々からも取り寄せている。
                                                                 ●愛宕神社(愛宕山)愛宕神社(愛宕山)
 そして、城下町の発展に伴い、大火災の発生も多くなった。寛永六年(一六二九年)に重臣・仙石久勝が、火伏せの神である愛宕権現を山城の国(京都府)から勧請したのが愛宕神社である。二代藩主山内忠義公は承応二年(一六五三年)、ここで防火祈願の祭事を行っている。それ以来、藩内の火伏せの神として信仰されるようになった。祭事には、他郡からも人々が集まり、多いときには数千人の参拝者でにぎわったという。

 三谷の観音さまも、三代藩主山内忠豊公、四代藩主豊昌公があつく信仰し、観音堂を再建し、寛文八年(一六六八年)に大絵馬(市文化財)など寄進している。弘法大師にゆかりの深いこの寺はいくつかの変遷を経て現在、清水山弘法院三谷寺といわれている。『類従土佐故事』などによると、忠豊公が船で帰国の折、浦戸沖で、海難防除の祈願したことにより、海難をまぬがれたともある。歴代の藩主からもあつく信仰されていたという。さらに、庶民の信仰をも集め、祭事には大いににぎわっていた。中秦泉寺の旧採石場から三谷寺に至る参詣道沿いには、西国三十三観音のミニ観音石像が立ち並んでいる。これは、近代になってから設けられたようである。

 土佐学問の中興の祖といわれる谷秦山は、この地に在住していたので、地名にちなんで秦山と号したものである。すぐ近く秦山にある谷家一族五十基ほどの墓石は、自然石である。家訓によるという。土佐学問の発展に寄与した長男垣守、孫の真潮、自由民権家・重喜、重中の墓もある。谷家では、他家への養子縁組みを禁じていた。別家召し出しがない限り、原則、医業で生計を立て、家塾を設け子弟教育をしたという。

 江戸時代、高知城下の近郊、江ノ口、小高坂、井口、潮江の各村は、城下四箇村と呼ばれていた。後に、秦泉寺、久万、万々、下知も付け加えられ、城下町に準ずる扱いを受けていた。近代になって、明治二十二年の市町村制の実施に伴い「秦村」となった。

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