土佐史研究家 広谷喜十郎 |
246沢正の『坂本龍馬』-高知市広報「あかるいまち」2004年10月号より- |
十数年前、中国の京劇団の一行が取材のため、来高したことがある。「坂本龍馬」を上演したいという。日本での公演中に、新橋演舞場で行われていた新制作座の「坂本龍馬」を観劇し、一同が感動して京劇での「龍馬」を演じたいと考えたらしい。龍馬役は、京劇の公演で、坂東玉三郎とも共演した花形役者で、「龍馬はすばらしい仕事をやり遂げたことだけではなく、魅力あふれる人間なので、京劇を通じて紹介したい」と熱っぽく語っていたのが印象的であった。 ●昭和3年に発行された真山青果著『戯曲 坂本龍馬』(県立図書館所蔵) 京劇の連中に感銘を与えた「坂本龍馬」の芝居は、劇団新国劇の創立者・沢正こと沢田正二郎が、真山青果に脚本を依頼して作り上げたものである。亡くなる前年の昭和三年に、全身全霊を込めた迫真の演技で、大いに話題を呼んだ作品である。沢正は土佐人の父親を持ち、終生土佐人の心を失わなかった人物である。 沢正の芝居といえば「国定忠治」のほか、土佐勤王党首領の武市半平太や福岡藩士・月形洗蔵をモデルにした「月形半平太」が有名であるが、前々から郷土の先人・坂本龍馬に興味を抱いていた。真山青果に脚本を依頼したところ快諾され、二年余りの歳月をかけて執筆された。青果は二度も高知へ取材に訪れ、また東大史料編纂所などで多数の書籍に当たるなど、彼も龍馬にほれ込み、理解を深めていく。 それまでの龍馬像は、「剣豪」「英雄」としてのイメージが強く打ち出されていた。青果はそれに疑問を持ち、「龍馬ほど自分の生きざまの中で、もがき苦しんだ人間はいない」という視点で龍馬の内面性を探究しようとした。 青果の作品に、沢正は「次々に届けられる原稿を手にして、いつもの負けん気を出しながらうなり続けていた。今度は真山先生に敗けたかもわからないともらした。それだけに彼の「坂本龍馬」上演には殺気さえ感じられた」(樋口十一著『風雲児沢田正二郎』)という状態であった。 芝居は、昭和三年八月一日から、三十日間帝国劇場で上演された。大好評で、連日大入り満員であった。 この芝居を見た歌人・吉井勇は、「私はすっかり興奮の後の疲労を感じてゐた」(『演藝画報』)と絶賛している。 |