土佐史研究家 広谷喜十郎

253大利の地福寺-高知市広報「あかるいまち」2005年6月号より-


 最近、鏡地区大利の地福寺を訪ねる機会があった。旧鏡村役場から車で数分、鏡ダムに臨む閑静な場所にある。

                                                    ●鏡大利の地福寺。写真左手前には川田十雨・和子夫妻の句を刻んだ碑が見える。鏡大利の地福寺。写真左手前には川田十雨・和子夫妻の句を刻んだ碑が見える。
 『鏡村史』によると、『長宗我部地検帳』に地福寺の名が認められるほどの古い寺であるという。江戸時代初頭に「吸江寺を復興した湘南和尚を永玉和尚が地福寺開山に勧請し、吸江寺奥の院と伝う」(『由緒書』)とあるように、禅宗の寺となった。

 湘南和尚は初代藩主山内一豊の義子である。天正十五年(一五八七年)ごろに近江長浜の城下で、夫人(見性院)が「男の捨て子を拾い、拾と名づけて養育した。(略)拾は夫妻の慈愛のもとに成長した。(略)夫人の計らいで僧となり学問を修めることになった。慶長元年(一五九六年)、京都の妙心寺の南化元興の弟子」(『高知県人名事典』)となった人物である。

  一豊夫妻が南化和尚に強く影響を受けていたことは、山本大著『山内一豊』(人物往来社)に詳述されている。

 その後、湘南和尚は一豊が入国したとき土佐へ来て、五台山麓の吸江庵を吸江寺として再興する。その折、京都から連れてきた小坊主が、後に全国的に活躍した儒者・山崎闇斎である。

 やがて、湘南和尚は妙心寺の南隣院を開山し、紫衣の勅許を受けるほどの高僧となった。

 晩年は、一豊夫妻の恩に報いるため、妙心寺の大通院にある霊廟を守ることに専念したという。寛永十四年(一六三七年)に吸江寺で逝去し、遺骨は妙心寺の大通院に埋葬されている。

 地福寺の境内にはイチョウの大木があり、根元近くに俳人・川田十雨、和子夫妻の愛情を物語る共同句碑がある。

 十雨は、大正時代からホトトギス派の俳人として活躍し、戦後、俳誌『勾玉』を発刊するなど高知県の文化発展に貢献した。この寺院で夫妻を囲んでの句会がよく開かれた。

 禅堂に 燈灯つくや 虫の闇     十雨

 涅槃図に 啓蟄の虫 這ひ出でし     和子 

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