土佐史研究家 広谷喜十郎

254山内家と要法寺-高知市広報「あかるいまち」2005年7月号より-


 山内一豊は、天正十三年(一五八五年)近江長浜城主となり、天正十八年(一五九〇年)遠州掛川城主となる。一豊が長浜城主となったときに菩提寺となった日蓮宗要法寺は、これに従い掛川へ移転。慶長六年(一六〇一年)一豊土佐入国の際には浦戸に移り、そして高知城下町の建設に伴い武家の住む郭中に隣接した場所へ再び移転、寺領は、百三十石であった。寺の西側の堀に沿って町屋敷が設けられ、要法寺町(現在の堺町)ができている。藩政時代には、真如寺が藩主の菩提所となるが、一豊の弟・康豊は要法寺をあつく信仰していた。

                                                     ●山内康豊の墓(要法寺)山内康豊の墓(要法寺)
 貞享四年(一六八七年)の火災で寺が焼失したので、筆山のふもとの潮江村に代替地が与えられた。作事奉行に加藤六兵衛を任命して、元禄元年(一六八八年)に立柱式が挙行された。寺の黒門は、承応元年(一六五二年)に藩臣の石川氏が慈仙院(一豊の妹)の七回忌供養のために修復造営したものが、火災の折にも焼失せずに残り、再建時に移され現存している。

 山内康豊は、慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原の戦いの軍功により山内家が土佐に就封するに当たり、兄の一豊に先行し、同年十一月に入国した。井伊家の軍勢と共に長宗我部氏の旧家臣の反抗を押さえ、土豪や農民の還住を促して民心安どに努めている。翌年六月、中村で二万石を受けた。

 慶長十年(一六〇五年)に一豊が死去すると、康豊の嫡子で十四歳の忠義が藩主の座についたので、その後見役として藩政の実務に参与し、法令の制定などに関係して実績を挙げている。寛永二年(一六二五年)に七十七歳で逝去し、要法寺境内に埋葬されている。

 寺には「山内康豊画像」「慈仙院画像」「恵沾院(康豊の娘)画像」(高知県保護有形文化財)が所蔵され、また一豊、康豊、忠義などの古文書もあり、山内家とのつながりの深さを知ることができる。

 ほかに、室町時代の作といわれる「三十番神画像」「鬼子母神画像」と「日蓮聖人真筆及真筆形木」の寺宝が県文化財に指定されている。

 境内には、「桜井」といわれる名泉がある。古桜の切株の樹身が朽ちて外郭が残り、そこから水がわき出たので桜井戸とも呼ばれる。水は茶の湯に適し、江戸時代には高知城に毎日運ばれていたといわれる。 

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