土佐史研究家 広谷喜十郎 |
256山内一豊の入国-高知市広報「あかるいまち」2005年9月号より- |
山内一豊は、関ケ原の戦いで東軍側に属し、その軍功により土佐一国を封ぜられた。 ●浦戸城址の石垣 『山内氏時代史初稿』の慶長六年(一六〇一年)一月八日の条に、「是ヨリ先山内一豊大坂ヲ発シ二日甲浦ニ着シ、是ヨリ陸路ヲ経テ是日浦戸城ニ入ル」とある。一豊の一行は、前年十二月二十五日に大坂を船で出て土佐をめざした。淡路の由良港で越年したとされるが、阿波(徳島県)の椿泊港という説もある。一月二日に甲浦に着いたが、すぐには出発せずに浦戸までの道筋を地元民に尋ね、検討し、甲浦からは陸路を西行して浦戸城に入城したという。先に入国していた弟の康豊は、室戸の津呂港から船で甲浦まで行き、一豊を出迎えている。 『家譜事実』には「五日彼地御発駕、奈半利ニ御一泊」とあるから、一月五日に甲浦を出発して、起伏の激しい野根山越えの道を進んで、奈半利で一泊している。それは、長宗我部氏の遺臣の襲撃を懸念しつつの緊張した旅であった。一豊自身は、腕に鷹を置いて馬を進めたという。『奈半利町史』によると、道案内をしたのは奈半利の浜庄屋・浜田七郎右衛門で、当地の正覚寺で宿泊したと伝わっている。 六日は、安芸浜で宿泊。『須藤家年譜書』では、安芸浦の須藤少左衛門なる者が御目見を許され、浦戸までの案内役を命じられたとある。この須藤家は後に安芸三浜の総庄屋として活躍している。 次の七日には、赤岡の浜五郎兵衛宅にて泊る。五郎兵衛は康豊の意向を受けて、前年から活動していた人物である。浜家の『家記』には、一豊は浜家に対して御旅館に指定し、屋敷壱反二十八代(一反は五十代)と御紋付を与えられたとの記録がある。 八日、一豊一行は浦戸城に入城するが、落着く間もなくすぐさま軍船に乗り、「近海巡視シ吸江ニ抵リテ帰ル」(『山内氏時代史初稿』)とあるように、浦戸湾を巡視し吸江付近まで北上して帰城している。 このことにより、山内家の年頭行事の一つ「御船乗初式」が行われるようになった。後に、徳川家の忌日を避けて十六日に変更されている。さらに、十八日には、近くの若宮八幡宮の馬場での「御馭初の式」も挙行されるようになった。 |