土佐史研究家 広谷喜十郎 |
257五藤為浄の活躍-高知市広報「あかるいまち」2005年10月号より- |
山本大著『山内一豊』によると、一豊は慶長六年(一六〇一年)の土佐入国の折、五藤為重を呼び寄せ、道中で気に入った場所があればそこを所領として与える約束をしたという。 ●為浄ゆかりの「五藤家家宝の鏃」(安芸市歴史民族資料館所蔵) 東部山地を越して安芸平野に差し掛かったとき、為重は、ここに所領がほしいと申し出て認められた。これは、一豊の命の恩人である為重の兄、吉兵衛為浄の功労に報いるための逸話として語り継がれている。 山内家と五藤家との結び付きは、父親の代から始まる。一豊の父が戦死して放浪生活を余儀なくされてからも山内家に仕えていた為浄は、十三歳のときから一豊の側侍となった。そのころの一豊は、豊臣秀吉に仕え数多くの戦闘に参加しているが、そのそばにはいつも為浄がいたことになる。 中でも有名な戦いは天正元年(一五七三年)八月の朝倉攻めで、朝倉方の猛将・三段崎勘右衛門を討ち取った刀根坂の戦いである。 勘右衛門の自慢の強弓で放った矢が一豊の顔面を捉え、「左の眥から右の奥歯まで射通されてしまった。しかし、一豊は深手に屈せず(略)勘右衛門に飛びかかり取っ組んだまま坂から二十間ばかり下の谷底へ転落し、組討ちの死闘がつづいた」との激しい戦闘場面を山本大氏が描写している。 一豊は、勘右衛門の弟の助太刀もはねのけながら、やっと勘右衛門を組み敷くことができた。しかし、重傷と疲労のため何もできずにいたところ、折よく友人の大塩金右衛門が来合わせて勘右衛門の首を討ち落としてくれた。一豊は金右衛門の手柄にと言ったが、金右衛門は首を置いて立ち去った。 そこにやってきた為浄が、主人のほおに刺さった矢を抜こうとするがなかなか抜けなかった。そこで一豊は「草履履きのまま顔を踏み付けて抜け」と命じて、やっと抜くことができたという。 為浄は一豊の代理として織田信長に報告したところ、信長から恩賞を受けている。その後、天正十一年(一五八三年)一月の伊勢の亀山城攻めで戦うが戦死した。 為浄の霊は、安芸城跡内に藤崎神社として祭られている。矢の根は五藤家の宝物として、安芸市立歴史民俗資料館に展示されている。 |