土佐史研究家 広谷喜十郎 |
258 一豊と浦町の成立-高知市広報「あかるいまち」2005年11月号より- |
背後に四国山地がそびえ、前面に土佐湾が広がっている土佐にあっては、「水主浦」を設けて、船の確保や乗組員である水主、船大工、鍛冶などを掌握することが、新領主・山内一豊にとっての緊急であり重要な仕事であった。 ●「種崎町」を示す旧町名案内標識(はりまや町一丁目) 入国直前の慶長五年(一六〇〇年)十一月十八日、大坂において一豊は掟書を布告し、出国を許可した船以外の材木・米船、たとえ他人から借りた船を返す目的であっても勝手に出国させないようにと厳命している。翌年にも、「浦々之儀当国ニハ万事ニ付大切事候」と、船と水主の掌握に心掛けるべきであるとの定書を出している。 藩主らの江戸への出府、帰国に伴う海上交通、『藩志内篇』に城下町の建設の際「瓦ハ大坂ニテ買セ、職人モ亦同所ヨリ呼入ラル」「酒、醤油、酢、油、大坂ヨリ取寄ラレ」とあるように、必要な物資を大坂より取り寄せるための海上輸送、さらに、慶長十二年(一六〇七年)に行った駿府城普請のための材木一万本の海上輸送などを考えてくると、船と水主の役割がいかに大きいかが容易に理解できる。 『山内家史料・一豊公紀』によると、慶長七年(一六〇二年)には、種崎浦で回船や漁船を確保し、翌年には東灘方面の「船頭、水主帳」を作成している。水主の数は、種崎と安芸が一番多くて百三十八人、次に浦戸の百二十五人、甲浦の八十七人、赤岡の五十二人、奈半利の四十三人と続いている。六カ浦の合計は、五百八十三人であり、二十五浦ある東灘のうちで約6割を占める水主の集住地域になっている。これらの場所は、陸上交通の面から見ても交通の要所に立地している。 赤岡の場合は、浦庄屋の浜家の記録によると、一豊入国当初はまだ町の形をしていなかったという。そこで、赤岡を町並みにする命令を出し、「御抱浦」として、浦庄屋に酒造株十八本を与えるなどしている。浦町が円滑に成立していくために、本水主それぞれに十六代四歩(五十代が一反)の屋敷地を与えて厚く保護している。 浦戸湾の玄関口に位置する浦戸や種崎の場合は、高知城下町の建設に伴い、本水主たちを城下町に移住させて浦戸町、種崎町をつくり、一人当たり十六代の屋敷地を与えている。こうして、藩主の交通上の役割を担わせたり、城下町に必要な物資の海上輸送をさせたりした。 |