土佐史研究家 広谷喜十郎 |
261 一豊と城下町形成(二)-高知市広報「あかるいまち」2006年3月号より- |
『藩志内篇』の築城記録に、「瓦ハ大坂ニテ買セ職人モ亦同所ヨリ呼入ラル」とか「酒、醤油、酢、油、大坂ヨリ取寄ラレ」などとある。築城資材や武士に必要な日常物資を大阪方面から大量に買い込んでいたようだ。 ●はりまや橋の名は、17世紀前半に播磨屋と櫃屋との 往来のため設けられたことに由来している。 それら物資購入のため、京都商人である志方源兵衛が山内氏の財政顧問として活躍する。ほかにも何人かの京都商人の藩内での活躍が認められる。このような京都商人の活躍を反映するかのように、京都の呉服屋・筒井宗泉が城下へ移住して京町という町ができる。さらに、その南側に堺町がつくられている。泉州堺の呉服商が呉服商売のために来国して住みついたと言われている。 呉服物といえば、京都の織物に代表されるような高級品が多いので、呉服商は藩主や重臣級の御用達として、常に藩主らの御用を務める特権的な御用商人であった。 後年「はりまや橋」で名高くなる播磨屋は、天正年代(一五七三年〜九一年)に長宗我部元親の讃岐(香川県)出兵の折、兵糧を調達した功績によって土佐に招かれ、浦戸城下に居住したといわれている。櫃屋も同時期に紀州(和歌山県)から戦乱を逃れ来国し、浦戸城下に住みついている。播磨屋宗徳や櫃屋道清は商人として長宗我部家に仕えていたが、山内一豊の城下町建設に伴い両家とも移住したものである。一豊はこれらの特権商人を武士の住む郭中に近い場所に居住させている。 播磨屋と櫃屋は町づくりに大いに貢献したとみえ、町年寄役を務めるまでになる。さらに、慶長十一年(一六〇六年)には、町役人としての仕事に専念させるために、藩庁により商業経営を禁止されている。 城下町づくりは、主として藩主の政治的・経済的要請に基づくものなので「町人共諸役一色モ無御座候、地子モ御赦免ニ而町屋敷地年貢立不申候」(『延宝九年差上折本』)とあるように、町役免除、屋敷地の無償交付という優遇策に支えられていたのである。これらの施策によって、後代には細工町や紺屋町などの職人町もできている。 |