土佐史研究家 広谷喜十郎

266 一豊と土佐茶(一)-高知市広報「あかるいまち」2006年8月号より-
 かつて「土佐医学史」(『高知県医師会史』収録)をまとめたことがある。鎌倉時代に従来の団茶系の喫茶法に対し、抹茶法を導入した栄西上人(『喫茶養生記』で有名)や京都高山寺開祖の明恵上人、さらに土佐ゆかりの夢窓疎石につながる茶の紹介記事を書いた。吸江寺には、貞和五年(一三四九年)の銘入りの石茶臼が残っている。

 全国的にみても、土佐での抹茶風習は早くから始まっていた形跡がある。そして、禅宗の発展に伴い、僧侶から武士へと広がっていく。土佐での茶の生産もあちこちで普及していったと思われる。

 長宗我部時代、慶長二年(一五九七年)の記録によると、「茶仕奉行」とか、「御城ニ而御茶湯并油請取同灯」という役所が設けられている。『長宗我部地検帳』にも、山間部に「茶アリ」などの記載が数多く見られ、茶葉の生産がかなり広くなされていたことがうかがわれる。

 山本大著『長宗我部元親』(吉川弘文館)によると、元親は上洛して豊臣秀吉に謁見する折には、茶道家として有名な堺の商人・今井宗久宅を宿所としており、茶道に深いつながりを持っていたことが紹介されている。

 天正十八年(一五九〇年)には、京都聚楽第で秀吉が諸国の武将を招待しての茶会が催された。その折、元親にも茶の所望があった。元親は、千利休に相談し、数寄屋を丹念に設営して秀吉を迎え入れ、手厚くもてなした。秀吉はたいそう満足したという。なお、元親は金子三十枚、小袖三十、猩々皮二十枚を進物として贈っている。その返礼として「秀吉より米千石を与えられ面目をほどこした」と、山本氏は述べている。

 『山内家史料・一豊公紀』の文禄三年(一五九三年)の二月三日の条に、「秀吉ヨリ茶宴ノ饗応ヲ受ク」とある。これは、秀吉が大坂城内で関白・豊臣秀次らのために茶席を設けたものである。一豊は、武藤長門らとともに三番の組として相伴にあずかる饗応を受けている。

 さらに、一豊は関ヶ原の合戦の前に当たる、慶長五年(一六〇〇年)六月二十四日、上杉景勝を征討すべく掛川の地にやってきた徳川家康のために新しく茶亭を設けて接待している。

 一豊も槍一筋の戦国武将から後年は、蹴鞠や茶道の世界にも興味を示していたようである。

長宗我部元親の肖像
長宗我部元親の肖像(秦神社所蔵)

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