土佐史研究家 広谷喜十郎 |
269 一豊時代の酒造り-高知市広報「あかるいまち」2006年11月号より- | |
かつて、『高知県酒造史』を書いた縁で、奈良市内東南部にある正暦寺を訪ねてみた。ここが日本清酒発祥の地だと言われている。 門前にそれを示す石碑がある。裏面に「日本清酒は室町時代(略)正暦寺において創建され、その高度な醸造技術は近代醸造法の基礎となりました」と刻記されている。 『あかい奈良(二十四号)』によると、当初は河内長野市にある金剛寺の『天野酒』が評判であったが、『諸白造り』を工夫した正暦寺の酒が他を圧倒していったという。 その技術は、奈良・興福寺の『多聞院日記』永禄三年(一五六〇年)五月二十日の条に、「酒を煮させ樽に入れ了る、初度なり」とある。夏場に向かって酒が腐りやすくなるので、加熱(火入れ)して低温殺菌する方法である。 この低温殺菌法は、世界的にも注目される。明治初期に来日したヨーロッパ人が、日本の清酒を知り、大変驚いた話も伝えられている。 また、加藤百一氏の著書によると、「木灰とか石灰などで酸を中和して香味を調整する方法」も開発され、濁り酒をすまし酒にする方法も生まれているという。 修業の厳しい寺院の門前には、「不許葷酒入山門」と刻記された石碑を見掛ける。酒やにおいのきつい食物はタブーとされていた。一方、中世の寺院の中には、酒のことを「般若湯」と称し、一種の薬酒として飲んでいた記録もある。 高知城築城の記録『藩志内篇』には、「酒、醤油、酢、油大坂ヨリ取寄ラレ」とある。土佐でもすでに、酒造りが行われていた。それをわざわざ取り寄せるということは、先述のような、関西方面で開発された酒を移入したものであろう。この酒は、山内一豊や家臣たちの需要に応じたものであろう。この時期に、土佐藩内で「火入れ法」が行われていたかどうかは、確認できない。 慶長十七年(一六一二年)に、二代藩主・山内忠義が掟書を布告して石灰、こうの灰などを濁り酒に入れることを厳禁している。このような法令が繰り返し布告されている。 本格的な清酒造りが可能になったのは、寛文年間(一六六一〜七二年)ころからの寒造りが普及して以後のことである。 |
●真如寺門前にある「不許葷酒入山門」の石碑 |