土佐史研究家 広谷喜十郎

270 武田信玄と板垣退助(一)-高知市広報「あかるいまち」2006年12月号より-

 来年のNHK大河ドラマ「風林火山」は、甲斐の武将・武田信玄や山本勘助を中心に展開するようである。

 信玄の重臣に、板垣駿河守信方(形)がいた。新人物往来社刊『武田信玄のすべて』に「信虎、信玄の二代にわたり武田の重鎮として活躍した譜代の老臣(略)少年の信玄(晴信)の傳役として養成に尽くした。信虎を今川のもとへ送りとどけるなど、国主交代劇を無血のうち実現させる原動力となったことは知られる。武田を代表する侍大将として、また合戦上手として信玄に最も信頼され」と述べられている。信玄政権初期にあって、極めて重要な責務を果たした。

 策将として有名な山本勘助を信玄に推薦したのも、駿河守である。「乱波」などと呼ばれた忍者集団を組織するなど、軍略にも秀でた人物でもあった。

 寺石正路著『土佐名家系譜』の「板垣氏」の条によると、板垣駿河守に続けて、「正信乾氏天文十六年八月父信形戦死(略)後武田氏滅ふ際老臣(略)二人正信を奉じ、遠州掛川にて山内一豊臣乾備後に頼る。依て乾氏と称す。一豊土佐に封ぜるに及び名将の種を以て千二百石を賜ふ」とある。

 駿河守の子が乾氏を名乗り、一豊の家臣になっている。この初代正信一族の墓は、洞ヶ島町の安楽寺境内に現存している。

 また、『板垣退助君伝・第一巻』(自由新聞社、明治二十六年刊)では、「今を距る三百歳、天文十四年の昔、君が祖板垣駿河守信形、武田の軍を率いて大に湖上に戦い(略)以て遠祖の武を想見せるなり」と述べているように、駿河守の流れが板垣退助につながるというのである。

 退助自ら、板垣駿河守とのつながりを有名な歴史的な動きの中で劇的に紹介している。慶応四年(明治元年)三月、東山道征討軍参謀・乾退助は、信州の甲府を占領した時、人々の前で武田信玄の有力武将であった板垣駿河守の子孫であることを名乗った。これを機に、「乾」から「板垣」に姓を改めることにした。この退助の呼び掛けで土佐軍に協力するために、「断金隊」などが結成されたほどである。

 さらに、甲斐(山梨県)の恵林寺に所蔵されていた駿河守の画像に、退助の筆で「わが祖」と、書き入れたともいう。

板垣退助の銅像(高知城公園)
●板垣退助の銅像(高知城公園)

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