土佐史研究家 広谷喜十郎 |
273 門田ピッケル-高知市広報「あかるいまち」2007年4月号より- | |
三月末まで、県立坂本龍馬記念館で「反骨農民画家・坂本直行展」が開催され、大好評であった。北海道開拓の歴史に関心を持っているので、興味深い展示であった。 その折、北海道登山史の記録集ともいえる『山の仲間と五十年』(秀岳荘)の冊子を見る機会を得た。坂本直行のエッセーのページなどを繰っていくと、「近代登山を支えた門田ピッケル三代記」の項目があった。前々から門田ピッケルの創始者が高知県出身者であることを承知していたので、思わずくぎ付けになった。 「門田家は四国土佐河内(高知県佐川町)で代々二百年続いた鎧よろい師であったが、五代新平は明治維新の廃刀令で廃業に追い込まれ、細々と刃物を作って」とあるように、門田家が佐川町出身であることも記録されている。 六代目の直馬は、明治三十五年、二十五歳で北海道に入植。翌年に隣村の樺戸郡浦臼村に移住した。そして、開拓に必要な農機具作りに励んでいた。 昭和四年十二月、直馬の次男、茂に、北海道大学工学部の学生からドイツ製の八本爪(づめ)アイゼンが持ち込まれ、同じものを作るよう依頼を受けた。親子二人で苦心の末、第一号を仕上げて届けたところ好評であった。さらに、翌年七月にはスイス製のピッケルが持ち込まれた。それを見本に、門田ピッケル第一号が誕生する。昭和十一年六月、立教大学山岳部による日本初のヒマラヤ・ナンダコット隊へもそのピッケルが納入される。その立教隊の初登頂成功により、門田ピッケルは一躍有名になったという。 それを機に、門田ピッケルは日本のみならず、世界の登山家にも愛用されるようになっていく。 第一号のピッケルは、札幌ウインタースポーツミュージアムに、展示されている。平成十六年に開設された、ネパール国際山岳博物館にも門田ピッケルは展示されている。 『秦地区史跡報告』(高知市教委)の「秦泉寺斧鍛冶」に、「厚刃物鍛冶集団として秦泉寺斧鍛冶(おのかじ)の名を確固たるものとし、全国に知られることになった。他県から修行に来る人も多く、北海道の開発が始まると移り住んだ人も多い」とある。 土佐鍛冶の技術は北海道開拓に大いに貢献したのである。 |
●坂本龍馬記念館に展示された門田ピッケル (昭和30年代製秀岳荘所蔵) |