土佐史研究家 広谷喜十郎

274 川田龍吉のロマンス-高知市広報「あかるいまち」2007年5月号より-

 高知市旭地区出身の川田龍吉は、明治時代に三菱関連会社に勤める。明治三十年に横浜ドック会社社長、同三十九年に函館ドック会社専務取締役と、港湾建設事業で活躍している。また農場経営も始め、同四十一年アメリカから輸入した「アイリッシュ・コブラー」という名のジャガイモの栽培を始めた。これが「男爵いも」として普及することになる。

 なお、父親の川田小一郎は日本銀行第三代総裁を務めた人物である。

 数年前、龍吉を研究している伊丹政太郎氏から、北海道上磯町(現・北斗市)にある男爵資料館の金庫の中から約百通にも上る恋文が発見された話を聞いた。

 龍吉がイギリス・グラスゴーに留学中、交際していた女性からのものである。英文の翻訳をアンドリュー・コビング氏に依頼してあり、この恋文を中心に紹介しながら、龍吉の伝記をまとめたいとのことであった。

 『サムライに恋した英国娘』(藤原書店)が平成十七年九月に刊行された。オビには、「金庫に封印された一房の金髪、そして死後発見された百通の恋文の謎とは?」と、衝撃的な文言。有名な森外の『舞姫』にも通じるもう一つの悲恋があったというのである。

 龍吉が留学したのは、明治十年のことである。年表によると、同十六年「一月、龍吉はマクギーチ書店でジニーに出会う。二人は頻繁に文通(略)デートを重ねる。六月頃、龍吉はジニーにプロポーズ」とある。恋文には「だけどリョウ、私をあなたの妻と呼んではいけませんわ。まだそうじゃありませんもの…おやすみなさい。リョウ。わたしの心はいつもあなたのもとにあります。愛をこめて、ジニー」など愛情あふれる言葉がつづられている。

 同十七年、龍吉は父に結婚の承諾を得るために帰国した。が、許されず、再度イギリスには戻れなかった。

 後日北海道で男爵いもの栽培に専念するようになったのは、「じゃがいもはジニーとの思い出につながっていた」からであろうと伊丹氏は述べている。

 本年四月中旬、函館市に「男爵倶楽部」というホテルが開設された。これを機に、一階の一室に龍吉の資料室が設けられた。

川田龍吉(1856〜1951)(男爵資料館所蔵)
●川田龍吉(1856〜1951)
(男爵資料館所蔵)

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