土佐史研究家 広谷喜十郎

275 日光東照宮と板垣退助-高知市広報「あかるいまち」2007年6月号より-

 明治元年(一八六八年)の戊辰戦役の時、板垣退助の率いる土佐軍と大鳥圭介の率いる徳川幕府側の最強の軍との間で、日光山麓に位置する今市で戦闘が行われた。

 昭和五十二年(一九七七年)になって、栃木県今市市在住の田辺昇吉氏から、この戦いで戦死した九人の土佐藩兵の子孫を探してほしいとの依頼を受けた。田辺氏が『日光山麓の戦』という著書を刊行したので、戦死者の子孫にこの本を寄贈したいとのことであった。その後の調査の結果、三人の子孫が判明した。なお、今市にある土佐藩兵の墓地は地元民によって、常にきれいに整備されているという。

 今市の戦いの後、土佐軍は東照宮の山内にいる幕府軍を攻撃すべく、兵を進めた。

 だが、板垣は東照宮を戦火から守ることを第一に考え、谷干城らを派遣して交渉を行い、幕府軍を退却させることに成功している。

 田辺氏は「東照宮は危機一髪の状態であったが、土佐軍の活躍によって焼失せずに残されたのではないか。長州や薩摩であれば関ヶ原戦役の恨みつらみがあるので、無理矢理に攻撃していたにちがいない」と話しておられた。

 それに対して土佐軍は、土佐藩始祖の山内一豊が、東照宮に祭られている徳川家康から、掛川六万石から土佐一国の大名に出世させてもらったから、その配慮もあったのかも知れない。

 そうした歴史が影響しているのか、あるツアーが交通渋滞のため予定が大幅に遅れてしまい、東照宮への到着が閉門間際になってしまった時に、高知県からの旅行団と告げると、特別な計らいで至れり尽くせりの待遇を受けたと聞いたことがある。

 私も修学旅行の引率で訪れたとき、やはり厚くもてなされた。

 実際、今の東照宮があるのは板垣や土佐人のおかげであるとして、東照宮の神橋に近い金谷ホテルの入り口に板垣の銅像が昭和四年に建立された。現在の銅像は、昭和四十二年に再建されたものである。

 なお、天下に名高い陽明門への石段近くには土佐藩第二代藩主・山内忠義の寄進した大きな銅製灯籠がある。


金谷ホテル入り口にある板垣像(自由民権記念館提供)
●金谷ホテル入り口にある板垣像
(自由民権記念館提供)

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