土佐史研究家 広谷喜十郎

278 昔の土佐相撲-高知市広報「あかるいまち」2007年9月号より-

 数年前に、県外の方から問い合わせをもらったことがある。

 先祖が四国遍路をした折、書き残した巡礼記の中に、「谷合かしここの浜辺より老若男女多ク出来る(略)八ヶ村地神祭りにて、則此村ニ於て角力の大寄せ有り(略)見物するに、大イ成る市をなし荷売等も大ク見へ」とある。こういう相撲が行われた場所はどこであろうかと。

 記述の内容から推して、土佐中部辺りの漁村ではなかろうか。

 ここで、荒々しい相撲ぶりを見て驚いたらしく、「やゝもすれバびんの髪を取んとす。取れじと頭をふる。若シ髪を取なバ其侭土俵へすもうねぢ付力一ぱいをさへ居る」と記述している。それに、『土佐年中行事図絵』(高知県立図書館所蔵)十月の条に、鏡川河原で行われた相撲を紹介するとともに、「田舎ニテモ特殊ノ土佐角力ニシテ頭髪ヲ把ル事ヲ許ス、野蛮ノ遺物タリ」と、農村での相撲を紹介している。

 かつては、高知市種崎地区の仁井田神社で行われた奉納相撲が、特に有名であった。橋詰延寿著『高知市史跡巡り』によると、「元和元年(一六一五)以来祭礼には浜辺で大相撲を奉納している。この大相撲に出ないと他の場所に出場できない例になっていたので、押すな押すなの盛況(略)それで、「仁井田の相撲で待ったなし」という俚謡ができたほど賑わった」と述べている。この神社には、大きな「野見宿弥相撲取り図」の絵馬があのみのすくねる。彩色は剥落しているものの、画面全体が力強さに満ちあふれている絵柄で、江戸時代中期の作品と推定されている。
  『日本書紀』の垂仁天皇七年七月七日の条によると、大和国当麻蹶速(たいまのけはや)という傲慢な剛力ものがいた。天皇は出雲の国から野見宿弥という勇者を呼び寄せて力比べをさせたところ、宿弥は蹶速を蹴り倒し、殺してしまったという。これが、日本の相撲の起源として紹介されている。

 奈良県桜井市から天理市に通じる日本最古の官道・山辺の道の途中に、野見宿弥を相撲の始祖として祭る「相撲神社」(宿弥神社)が鎮座している。ここで、蹶速との対決があったといわれている。奈良時代になると、七月七日に古代宮廷の相撲節会の行事が恒例化されるようになった。

「野見宿弥相撲取り図」の絵馬(仁井田神社所蔵)
●「野見宿弥相撲取り図」の絵馬
(仁井田神社所蔵)

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