土佐史研究家 広谷喜十郎 |
279 アーネスト・サトー浦戸へ-高知市広報「あかるいまち」2007年10月号より- | |
慶応三年(一八六七年)七月の長崎で、イギリス人水夫殺人事件があった。その犯行の嫌疑が、土佐海援隊士にかかった。土佐藩に抗議するために、イギリス公使・パークスを乗せた軍艦が、八月六日に須崎港へ入港した。これに対して、土佐藩を代表して後藤象二郎が交渉に当たった。パークスの一方的な脅しにも屈することなく、再調査の約束をとりつけた。 この時、イギリス軍艦、江戸幕府の軍艦・回天丸、土佐藩の夕顔丸、見届けるために坂本龍馬を乗せた薩摩藩の三邦丸がそれぞれ入港した。イギリスのユニオンジャック、幕府の葵紋、土佐の三柏葉紋、薩摩の丸に十字紋の旗が海風にはためき、壮観であったらしい。 後に、イギリス人水夫殺人事件が全くのぬれぎぬであったことが判明した。明治四年、パークスは山内容堂宛に、土佐藩に迷惑をかけた旨の挨拶状を送付している。 この国際的事件におけるイギリス側の通訳官がアーネスト・サトーであった。八月十一日に須崎港から浦戸へやって来て、九反田の開成館で山内容堂と会談したことを回想録の『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫)の中で述べている。後藤について、日本人の中で最も才智の優れた人物の一人だとして、その堂々とした態度にパークスも感銘を受け、西郷隆盛と共に高く評価していたという。 浦戸湾に入った時の印象を「はるかかなたに小山がつづいている。海岸沿いに生えている帯のような松並木の景色は、私にセイロン島のポアン・ド・ガル湾をまざまざと思いおこさせた」と述べ、風光明媚なセイロン島にある湾の光景を思い描いている。 平尾道雄氏は、イギリスの憲法や議会制度等が話題になったことを取り上げ、容堂の思想は「進歩主義、薩摩や長州と共に改革の線にそう覚悟を見せた」(県民グラフ一五九号)と述べている。 サトーは皿鉢料理の接待を受けたり、等身大の男女解剖模型を披露されたりした。そして辞去する時、白縮緬(ちりめん)の反物七本を引き出物として贈られた。翌日、彼は須崎港に戻り、土佐藩船の夕顔丸に乗船して長崎へ帰航して行った。 |
●浦戸大橋から臨む現在の浦戸湾 |