土佐史研究家 広谷喜十郎 |
284 石灰と土佐(一)-高知市広報「あかるいまち」2008年4月号より- | |
土佐における石灰製造は、慶長年間(一五九六〜一六一四年)に山城国松尾(現在の京都府)の権之右衛門という者が来国し、高知城下の浦戸町で貝殻を焼いて製造したのが始まりだという。 『桂井素庵筆記』の寛文五年(一六六五年)五月十五日の条によると、「此日、余朋友十数人船に乗て行くに吸江及び東孕を南の方へ廻りて這ヘ松あり、此処を地獄谷という。此の下にて邦君よりの仰にて石灰をやく。但高知紺屋町の住紙屋太兵衛、堺町の住猿屋久右衛門の二人公儀より請て焼く、其焼木は前大守忠義公の御狩山荒倉山の諸木を伐てたく、其石灰は他所に焼きし石灰よりも太だ好し」と、記述されている。 この記述によって、浦戸湾の東孕方面で、城下の商人が藩命を受けて石灰製造を行っていたことが分かる。その後も山々の尾根伝いに石灰石の発掘が進み、春野方面にまで及んだ。 本格的な石灰製造は、美濃国(現在の岐阜県)の「濃州灰」の製法を習得してきた高知城下の美濃屋忠右衛門と大和屋三右衛門に始まる。三右衛門は享保十五年(一七三〇年)に藩庁の許可を受けて、長岡郡介良村や下田村(現在の南国市稲生)で石灰石を焼き始めている。「濃州灰」の製法を用いるようになったのは、呉服商の美濃屋忠右衛門らが商売のため京都へ行った折、同宿した美濃の人から濃州灰の品質の良さを聞いたのが始まりだと伝えられている。 『南路志』には、「下田村にて製するは馬骨石を焼き風化す。享保十四年初めて製し上方へ売る」とある。 享保十五年から文化三年(一八〇六年)までの七十七年間の生産高は、合計八十万五千九百五十一俵を製造している。上方市場へも積極的に移出している。 土佐石灰を利用して造られた漆喰壁は最初は薄黄色であるが、時間が経つにつれ白く仕上がるという特徴がある。また防火性、調湿性にも優れているため、城普請をする諸国の大名は競って求めたと伝えられている。 やがて、町家の土蔵造りにまで漆喰壁が使用されるようになる。高知県各地に残る漆喰塗りの民家は、土佐を代表する建築物になっている。 |
●尾根伝いに春野方面へかけて石灰石の発掘が進んだ。 |